咆哮。そう呼ぶに相応しい叫びだった。あるいは嘆きか。
どちらにせよ同時刻、同じ空の下、雨に濡れた狼が銀の毛を濡らし吼える様
を想像すればそれは一種、芸術の様でもあった。
「私は道を失った」
4年ぶりに聞く声を耳に、彼が口にした一言だった。
煙の中に暮らすような毎日だった。
帰国して大学を辞めてからは翻訳のバイトをしながら絵本を描く日々。
自分なりにけじめをつけ本気で取り組むためにと始めた一人暮らしに、孤独
は一番の相棒となった。孤独は、懊悩を増長させる。
それは小説家や画家にもあるように、売れる前には誰もが通る道で、焦れて
しまって夢をあきらめる人が多く出るといわれる期間だった。だけど私はも
うとっくに迷いを捨てていたし、持つこともなかった。もう十分、異国の地
で迷い苦しんだからだ。
思う。例え、このまま一生作家として芽が出なくても売れなくとも、私はこ
れでいい。この道で良いと。こう思うことで強くなったわけじゃない。売れ
なければやっぱり作家としては失敗に入るだろうし、生活だって危ういまま
だ。だけど、何が私にとって重要なのかを考えさせてくれたのは彼だった。
目を閉じるといつも浮かぶのはフランスの広大な荒野。
世界は私のために存在なんかしていない。
それを実感したからこそ、彼が気づかせてくれたからこそ、私は自分を見つ
めることができた。私は未来永劫夢を描き続けていたい。ほんのわずかの間
だったけれど、私はそう決断するに至ったまでのフランスでの全てを今でも
覚えていた。忘れない。忘れるものか。
彼のような強さを持ちたいと願ったし、また彼のような人生は送りたくない
と反面教師にもした。そんな世界の全てをくだらないと吐き捨てそうな彼は
今、日本に帰国しているはずだ。はずというのは、私が彼とあれ以来会って
いないからだ。どういうわけか、あの日の絵本を私はまだ返してもらってい
ない。約束は守られなかったのだ。ついでにいうならば、連絡も一切無い。
何があったのかは分からない。
だけど彼に会えることをまだ楽しみに待つ女がいることは事実だった。彼は
知っているのだろうか。ほんの二三日の間話を交わしただけの人間が、まだ
今でも自分を好いていることを。彼には想像も行かないことだろう。
現実主義者に夢やロマンを説くのは赤ん坊に哲学するのと同じだけれど、せ
めて、彼ともっと話しておくべきだったと、彼の心に決定的な物を残すこと
が出来なかったことを私は後悔していた。
彼は私をどう思っていたのだろうか。連絡が無いのだから、そんなのは決ま
っている。でも、私にはどうしても連絡をよこさない事が三成の本心でした
ことのようには思えなかった。そんなことを言っても、私は三成じゃないの
だから彼の心を分かるわけでも無いし、全ての真相を知っているわけでも無
いけれど、少なくとも私のような人間がいたという印象では覚えているはず
だ。彼の嫌いな人間だったあの頃の私を。
そんなことを考えながら私が小さなアパートで物語を紡いで、もう4年が過
ぎていた。
このまま、いずれ風化していく記憶の一つになるんだろうと思った。
記憶の風化は、どうしようもない。どうしようもないのだ。
雨の匂いが都会のアスファルトにその匂いを強くさせていたその日。
重く垂れ込める暗雲の中、出版社を後にして家路を急ぐ私の携帯に連絡が入
ったのは突然だった。傘を右手に差したまま左手で折りたたみ式の携帯を開
けると、着信相手は非通知と表示されていた。
出るか出ないかを躊躇っていると、後方から来た人と丁度傘が当たってしま
い、傘の骨を伝って落ちた雫に肩を濡らしてしまった。
商談は、上手く行かなかった。
売り込みに失敗するのは当然だ。むしろイラストは採用してもらえる方がま
れだと思ってやらなければ、それこそこの業界ではやっていけない。
いくら腕がよかろうと、自分を売り込む技術がなければ此処では生き残れな
いのだ。私だってそうして地道にやって4年が経過した。
だけどやっぱり、断られれば傷つく。落ち込んでも、その分立ち直るのが早
くはなったけれど。まあ、とにかく。
今、少なからず傷心の私はその電話に出たとして、相手が誰であろうといつ
も通りに接することが出来る自信が無かった。せめて番号が分かっていれば
後で相手に掛け直す事も出来ただろうにと思いながら、急な用であればいけ
ないと仕方なく通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。
「もしもし」
声がしないのを、最初、私はいたずらだと思った。
だけど向こう側から聞こえた小さく息を吐く音に、何となく。その呼吸の仕
方をする人間が頭に思い浮かんだ。硬く口を閉ざして、息をしているのか甚
だ疑問なその人間は、そういえば私が記憶の隅で思い出しては気に掛けてい
る人物のものとそっくりだった。
「みつなり・・・?」
4年ぶりに口にしたその名前が、自然と私の口をついて出た。
一言、電話の向こうで聞こえる雨音の雑音に交じったあと、電話はそこで切
れてしまった。
それでも私は、もがく。
間違えようが無かった。あの喉の筋肉を全部使って腹から出しているような
低い声は、4年前、異国の地で私を責めたものと全く同じだった。
あの日、私を蔑むかのような目で見て、悪辣に的を射る批判をした彼の言葉
に叩きのめされた私が、今、彼の言葉に驚愕を隠しきれないでいた。
どういうつもりで彼は我が道を失ったことを私に報告したのだろうか。大い
なる疑問は、4年越しにまで私に伝えるための電話をしてきたことだ。
一体、何が望みなのだろうか。
だけど、それでもいいからともう一度電話が鳴るのを待っている私は、やは
り4年前から変わらず、愚かなのかもしれない。
彼が目標とする夢は、叶ったのだろうか。一番の気がかりは、彼の言葉が示
す意味だった。
だけど今日も私は、現実を離れて夢物語を書かなければならない。
それが私の選んだ道だからだ。
東京は雨だった。
また今日も雨かとアパートのベランダを見やると、白いプランターが目に入
った。一昨年から何も植えなくなってしまったそれは、今や雨を溜めるだけ
の専用バケツになってしまっていた。それをぼんやり眺める。
最近、よく。日本に帰ってきた頃のことを思い出すようになった。一週間前
のあの電話以来、これまで以上に頻繁に思い出す回数が増えてしまったこと
に執筆の腕が遅らされて、いい迷惑になっていた。
確か、パンジーを育てていた。
昨日のことのように思い出せた。
パンジーが綺麗で、だからリラの花は花瓶に活けずにそのままにしていたの
だった。だって私にはパンジーの方が可愛らしくて大切に愛でなければなら
ないもののように思えた。少なくともその時は、思い出のリラの花を放置す
る罪悪感よりも日本に咲くパンジーの健気さが私の中で勝った。
そう思い出して、フランスのお婆ちゃんとお爺ちゃんの顔が浮かんだ。
罪の意識を軽くさせようと頭が提案したのかもしれない。リラを買ってくれ
た二人に手紙を出そうと机の引き出しを開けた。考えれば、最後に二人に手
紙を送ったのは去年のクリスマスだった。あれから、半年が過ぎていたのか
、考えるとぞっとした。人間関係も、風化するのか。そうか。現に彼とは。
思ったところで、机の上に置かれた携帯電話が鳴った。
「もしもし」
考えるよりも画面に表示される相手の名前を見るよりも早く通話ボタンを押
した。あのパンジーに、リラを混ぜてやればよかった。不釣合いでも、どう
せ見るのは私だけなのだ。思い出を混ぜたところで自分がその良さを分かっ
ていればそれでよかった筈なのだ。何ら問題は無い。
だけど私はパンジーを雨に枯らしたから、それすらも出来なくなってしまっ
た。それが悔いだった。彼のように丁度、岩の間に挟まって身動きの取れな
くなった魚のように。私はまた夢を追う代わりに彼を待つことに疲れてしま
ったのだった。
「元気ないね」
返事は無かった。
まるで幽霊と会話でもしているかのような一方的な喋りに可笑しさがこみ上
げてきて、たまらず私は小さく笑ってしまった。
道を失ったという。あの三成が。
だけど彼の言葉に冗談を含めた物言いは無かったから、おそらく真剣なのだ
ろうと思った。そもそも彼は一切、冗談めかしたことを言わない人間だった
とも。だけどやはりそれはどこか、真実味の無い事の様に思えた。
電話の先の応答を待って溜息を一つついたけれど、今、彼が何を考えて何を
しようとしているのかを思っても全く、皆目検討もつかない。
考えてみれば、私は4年前のあの頃、自分の話しは彼にしても彼自身の事に
ついてを詳しくは聞かなかったから、分からなくても当然といえば当然だっ
た。確か彼は、医者になりたいと言っていたような。
そんな彼は今、あの日の私のようにその道を失った事に頭を抱え、自分の道
を再び見つけようと躍起になっているのだろうか。あるいは、あきらめるの
だろうか。私と違って随分と遅く、彼には苦難がやってきたらしい。そんな
電話の先に今の彼の表情を思い浮かべようとしても、酷く曖昧だった。
4年の月日は確実に思い出を蝕んで風化させていたらしい。憎い事だと思っ
た。
牙の折れた、狼だろうか。
いずれ餓死するらしい。
一匹狼のような瞳の彼を思う。人間は一人では生きられないと言うのが私の
持論だった。これまで多くの人に支えられてきたし、この4年でそれを強く
実感したからそう思うのだ。だけど彼はどうだろうか。最初に異国の地で会
った時から、彼は一人だったじゃないだろうか。
酷く、他者を排斥する目をしていた。だけど彼はまた、自分にも厳しくあっ
たから、自分で休める場所も無くしていたように見えた。それでも孤高であ
ろうとする姿に、だから私は惹かれたのかもしれない。
だけど彼は念願を、叶えられなかったのだろう。
何となく、この間の電話でそれを悟った。
4年の間に、埋められない溝が彼との間にできていたとしても、夢を追う者
同士と心のどこかで私は彼をライバルとして意識し続けていた。
だから正直、連絡が無いのを心の支えにしている私もいた。彼の悪い噂を聞
けば、私は頑張るのをやめてしまうかもしれないと恐れていた。だけど、杞
憂だったらしい。実際こうして声を聞いて、しかもそれが目標とする人物の
凋落を知らせるものであっても、動じていない私がいた。
それは完全に、私が彼への依存から脱却していたことを示す証拠だった。
「ねえ、三成」
焦れた私は一方的に口を開く。
恐らく彼に話す気は無いだろう。長い沈黙に彼の通話料金の方が心配になっ
てきたので、私のためにも彼のためにもこの4年のわだかまりを終わらせる
ことにした。返されなかった絵本も、実はもうとっくにあきらめている。
重要なのは、私があの時出会ってしかるべき人間が三成だったということだ
けだ。であればこれはその逆に他ならないのでは無いだろうか、私の中でそ
う合致がいったのを、彼がどう思うのかが問題だった。
「今度は、私が三成を導いてあげようか。幸せにしてあげられるよ」
彼のプライドの高さを考えれば、おどけるように言って見せるくらいが丁度
いいだろう。私の手を取らないとしても、これなら彼は鼻で笑い飛ばして無
かったことに出来る。何もかも。そうして電話を切ってしまえば、今度こそ
何もかも終わりだった。だけど。
「ふざけるな」
狼は泣かなかった。人間の施しは受けないと此処に来てまで餌を拒むらしか
った。そろそろ我慢も限界だろうに。男の誇りの高さに、私は彼を尊重する
べく相槌を返して音から耳を離そうとした。そうするしかないのだから。
だけど、彼はまた、口にした。それは絶望から這い上がる勝者の、ある意味
では完全なる敗者からの、遺言とも取れる脅しだった。
「今一度、貴様が生涯を掛けて私を望め」
|