雲はどんよりと、重く垂れ込めていた。大学を出た二人の、駅へと向う足取りはいつもより少し速い。けれど
も一応彼が気にかけてくれているおかげで二人の間に距離が出来ることは無くて、並んだ肩は触れそうなほど
に近くにあった。そういうところには、いつだって気が回る彼だった。並んで歩くと嫌でも視線を集める原因
は隣の恋人にあるけれども、今では同姓からの羨望と嫉妬の眼差しもそれほど気にはならなくなっている。付
き合って暫くの頃はこれほどの美貌と頭脳を兼ね備えた人と私とでは、一緒の空気を吸っているのもおこがま
しいと思われているに違いないと卑屈になりもしたけれど、「それなら別れるかい?」という恋人の一言によ
って一気に目が覚めた。周囲からそういう目にあわせられるであろうことを分かっていながらも、抑えきれず
に思いを告げたのは私だ。意外にも半兵衛はOKをしてくれた。・・・今になって思うと、面識のほとんどな
かった私からの告白をOKしてくれたのは、彼のたまにある気まぐれの一つだったのではないかと寂しくな
る。なんだか、私ばかりが半兵衛を好きな気がしていた。思い返せばいつだって、恋人同士がするような「好
き」という言葉や「キスしよう」という会話を口にするのは私ばかりで、彼の口からそれらしい台詞を聞いた
事というのはこれまでほとんど無かったような気がする。ほとんど、いいや、全く無かった。彼のうちにある
私なんて、せいぜい、一緒に歩いているところを半兵衛の友人が見て、「誰?」と聞かれた時に「恋人」と答
える程度の存在だった。それが半兵衛の内にある『恋人がいる』という自覚だった。その程度だ。惚れた方が
負けとはいえ、これではあまりにもあまりではないだろうかと、なんだかやりきれない思いが募っていく。だ
からといって「私のこと、好き?」と聞くことだけは終ぞ怖くて出来なかった。何故って、つまりそういうこ
とだからだ。彼が私に対してそれを口にした事が今まで一度もなく、彼の方から積極的に求められた事もまた
然り。なので、考えれば考えるほどに。彼が私に付き合ってくれているにすぎない、と。また彼の気まぐれに
私が振り回されているだけなのだと、嫌でも理解させられる。私が彼を好きなのは確かだけれど、それは永遠
に一方通行だと。分かっていながらも認めたくなくて、そのまま私のなあなあが尾を引いてずるずると二年が
過ぎてしまったけれど、恐ろしいのはそれでもまだ半兵衛が好きだと思う私の心だろうか。雨が降りそうで、
傘を持ってきていなくて、しかし駅まではまだ遠い。だからって、この地に留まって雨宿りをしたいとも思わ
ない。これを渡ればあともう少し、そんなところまで来て、丁度赤信号に捕まってしまった。もう、間もなく
して雨は降り出してしまうだろう。間に合わない。車の強い排気ガスのにおいが鼻を掠めた。

「半兵衛」
「なんだい」
「・・・別れたい」
「?どこか、寄るところがあるのかい」
「そうじゃくて、」

変なところで察しが悪いんだ、なんて心のうちで感心しつつ「違う、私達のこと」と口は勝手に動いていく。
未練も何もないというように自然に滑り出た私の言葉は普段とはまるで違う、別人のもののよう。あまりの潔
い口ぶりに何を言われたのか理解が出来なかったらしい、進行方向に向けられていた半兵衛の目は顔ごとこち
らに向けられた。それは、今日初めて彼と顔があった瞬間だった。大学で何度もすれ違っているというのに、
全くこちらを見ようともしないのだから。端正な顔立ち、その瞳がしっかりとこちらを見てくれていること
に、場違いにも嬉しくなる。半兵衛の薄紫の瞳に映る私は、声とは裏腹に随分と顔を強張らせていたけれど。
「・・・君は、なにを、」言い出すんだ、と半兵衛のその後に続きそうな言葉を自分の頭の中で補完して、続
く言葉を紡いでいく。「もうそろそろ、大学も卒業だし。・・・頃合だと思ってた」たった今思いついた理由
を丁稚上げると、今度こそ半兵衛の目は驚きに見開かれた。信じられないと言いたげに。彼の呼吸すらも止め
る言葉を紡ぐ事が出来るのは、彼の親友だけだとばかり思っていた。初めて見る彼の動揺に、少なからず私の
心も揺さぶられる。「突然どうしてそう思ったのかはわからないけど、理由くらい聞いてあげるから、どこか
に入ろう」と、多分、半兵衛ならそう言うだろうと思っていたから、何も言わないどころか固く閉ざされて開
く気配すらない口に戸惑いを覚えたのは私の方だった。先を見越して言葉を考えていたのに、出番が無くなっ
てしまった言葉たちが私の頭の中で洪水を起す。どうすればいいのだろう。何処にも行き場が無い。やがてぽ
つり、私の頬を打つ水の冷たさに気がつく。私が流した涙なのか天から落ちてきた滴なのかは分からないけれ
ども、初めて私が彼を手玉に取っているような気がして、嬉しくてハイになって行くような、何も返してくれ
ない彼に心底失望するような。掻き毟りたくなるような喉の引っかかりと落ちてきそうな曇天が我慢できなく
て、地面を蹴っていた。

「青信号だから、もう行くね」





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それでも背後から引きとめる声が、もう間もなく今にも聞こえてくるのではないかとずっと思っていた。心の
どこかで願っていた勝手な望みも所詮私の独りよがりでしかなく、どこまでも半兵衛の中にある私という存在
の軽さを思い知らされるだけになってしまったけれど。それでももしかしたら、そうもしかしたら。今頃半兵
衛は私の言った言葉の意味を考えて悩んでくれているのではないだろうか、なんて。あの余裕に満ちた表情が
曇っている姿を想像してみたりもした。馬鹿な私。三十分経っても一時間が経とうとしても一向に鳴る気配の
ない携帯電話を握り締めて、ただ雨に濡れている。家に帰る気が起きない。一人暮らしのアパートに戻ったと
ころであの閉塞感と孤独に自分が耐えられるとは思えず、今よりももっと悲惨な事になるのが目に見えてい
る。全力疾走をした後の疲れた足を引きずるようにしてやって来たのは、駅近くの公園だった。もしかしたら
半兵衛が探しに来てくれるかもしれないと考えたら、電車に乗ることも出来なくなっていた。走っている最中
に何度後ろを振り返っても彼が追ってくる気配はなかったというのに。それでもまだ希望を捨てないでいるな
んて。いっそここまでお互いを想う気持ちに差がありすぎると、全てが私の一人相撲のようで滑稽に思えてく
る。いいや、最初から何もかも私の一方通行で始まった恋で関係なのだから、滑稽で当然なんだけれども。彼
の、半兵衛の心の全てを私で占める事が出来ないのは初めから分かっていたし、それを理解したうえでそれで
もいいと彼を好きになった私の責任であるから。けれど、それでも少しくらいはと望むことですらも私の我儘
なのだろうかと。耳の中にまで入ってくるような激しい雨に頭が冷えて行くようだった。もし、半兵衛がこの
まま来てくれなかったら、その時は。望む望まないに関わらず迎えるであろう結末が頭をよぎった時だった。

「・・・ちゃん?」

知った声。雨を分けて聞こえてきたそれが誰のものなのかは一瞬で分かったけれども、どうしても地面に伏せ
た顔を上げることが出来なかった。誰にも見られたくない、口もききたくない。雨に打たれながらも頑なな私
の様子を不審に思ったのであろう彼は、心配そうに更に声をかけ続ける。

「おーい?あれ?人違い?ちゃん・・・、ちゃんだよな?」

恐る恐るというように、自分の持つ傘を除けて私の顔を覗き込んできた彼が見たのは、下唇を噛んで携帯電話
を握り締めているという今の私。どう思ったのかは分からないけれど、それでも私が無視を決め込んで地面を
見据えていると、少しして私の上に落ちる雨が止んだ。代わりに聞きなれた優しい声が降りてきた。

「何かあったのかい?」
「・・・なんでもない」
「何でもないってことはないだろう」
「なんでもない」
「でもちゃん、・・・・今にも泣きそうな顔してるよ」
「何でも、ない」
「・・・半兵衛か?」
「・・・何でもないって、ば・・・」

四回目で声が震えてしまった。それを「ほら、何かあったんだろう」と決めつける彼に腹が立って「なんでも
ないってば!」と強く返してしまった。何をムキになっているのだろう、八つ当たり以外の何物でもない。此
処に来たのが半兵衛ではなく彼だったことに腹が立っているのだろうか。だけどいつもならそこで引き下がっ
てくれるはずの優しい彼は、「なら顔を上げろよ」と珍しく挑発するような物言いをした。その声に、とうと
う堪忍袋の緒が切れた私は一言言ってやろうと顔を上げたけれど、顔を上げた先にあったのは挑戦的な顔どこ
ろか今にも泣き出しそうな、弱々しい目をした男の顔だけだった。思わず拍子抜けして握りしめていた手を解
く。何で慶次がそんな悲しそうな顔をしてるの。口にしようとしたところで、先に私の目からなにかが零れて
いた。携帯電話が地面に落ちる音がした。

「泣いてるよ」

慶次の指摘する言葉が引き金になったのかは分からないけれども、それで私の中の何かが決壊してわあわあと
声を上げて泣きだした。哀れみしかない目を向けられて、ようやく私は自分が『可哀想なのだ』ということを
理解した。いいや、初めから私だけが可哀想なのは分かっていたのだが、これも先程と同じくあまりにもあま
りなので認められないでいた。私だけが半兵衛を好きなばかりに、別れの際にも傷つくのは私だけだという事
実。それならどうして別れようだなんて口走ってしまったのだろうかと後悔だけが残る。雨の轟音にも負けず
声をあげて泣く私を、慶次は自分が濡れるのも厭わず傘で隠してくれていた。ああ、こんなことなら慶次を好
きになれば良かった、なんてこんな時まで見当違いなことを考えていたら思い至った。半兵衛に私の事が好き
かどうかを怖くて聞けないから、それで代わりの言葉を探していたら「別れよう」の言葉になっていたのだ。
ほんの少し私をどう思っているかを知りたいがために試す様な事を言った。しかしそのもしかしたらを期待し
てしまったために自分のしでかしたことの馬鹿さ加減を思い知らされて、二人の関係にヒビを入れることにな
ってしまった。止まない雨にこれからどうしようと考えていると慶次が言った。

「半兵衛、結構三人でいる時にちゃんのこと話すんだよ」

見えすいた嘘を流せないくらいに、私の心はぼろぼろだった。

「がああ言った、がこう言ったってさ」
「・・・嘘だ、半兵衛は私の事なんて何とも思ってない・・・」
「本当だって。店にある服を見て、に似合いそうだって呟いたりしてるんだ」
「・・・な、なに、それ」

半兵衛の心の内を占めているのはいつだって慶次と秀吉で、そこに私が割って入る隙など全くない。彼にして
みれば私のことなんて恋人どころか空気も同然だ。半兵衛は忙しいからと、私に構ってくれる時間が少ない事
を割り切って考えてはいるけれども。たまに、その存在を思い出したかのように彼が私を甘やかしてくれる以
外にはキャンパスですれ違ったとして話しもしないのが常なのだ。「・・・今日は久しぶりに二人で帰れるっ
て、珍しく機嫌が良かったんだぜ」慶次のその言葉に、胸が痛み出す。だって、そうは言っても、半兵衛は一
度だってそんな事を言葉にはしてくれなかったし、行動にもしてくれたことがなかった。素振りすら見せな
い。慶次が私に嘘をついて、慰めてくれているんだ、違いない。一度は泣いて治まったはずの胸がそういう優
しい嘘で掻き乱されるのが嫌で、私は落ち着かせようと必死でシャツの胸元を握りしめる。そうだ、現に、こ
うなった今ですら半兵衛は私を追いかけに来てはくれなかった。もし、その冷たい仮面の下で考えている事が
慶次の言うとおりであったなら、どれだけ良かっただろうと思う。「きらい・・・半兵衛なんか、きらい」震
える指で地面に落ちた携帯を拾う。慶次が言った。

「俺みたいにさ、後悔だけはしちゃいけないよ」

後悔。このまま半兵衛と何の連絡も取らないでいたら、きっと私たちの関係は自然消滅という形で終わってし
まうだろう。そうなった時、私は納得してその終わりを受け入れることが出来るのだろうか。後悔はしないだ
ろうか。なにか、慶次の言葉に考えさせられる気がして、気がつけば私は一目散に公園を飛び出して家に向か
って走り出していた。もし、例え、半兵衛にとっての私がお遊びで惰性の関係であったとしても、それでも今
はまだそばに置いておいても良いと言ってくれるのなら、私はもう少し半兵衛のそばにいたいと思う。彼の周
りに流れる、穏やかな時間が好き。半兵衛が好き。慶次の言うことが本当であろうとなかろうと、遅かれ早か
れ私が半兵衛の気持ちを直接聞く時は来ていただろうし、違いはそれが今日であったかどうかだけだ。半兵衛
が好き。家に帰って着替えを済ませたら、急いで半兵衛に連絡をしよう。それで今日の事については一度きち
んと謝って、もう少し彼女でいさせて欲しいということをお願いしよう。断られたら仕方がないけれど、もし
それが許されたなら半兵衛の側にいたい。エレベーターの無い寂れたアパートの錆び付いた階段を音を立てて
一気に駆け上がっていくと、自分の部屋の前に立っている人の影を見つける。

「」
「・・・え?は、はん、・・・べえ・・・?」

思う。多分きっと、半兵衛じゃなくても恋人で良いなら他にもいい人はいっぱいいると思うんだけど、此処に
帰ってくるのが当然というように私の日常に溶け込んでしまっている半兵衛が私を見つけてほっと息をついた
のを見てしまったら。

「おかえり、探したよ、すごく」
「・・・っ」

携帯電話を閉じて、そっとポケットにしまった彼がたまらなく愛しくなって、雨でずぶ濡れの自分の恰好も省
みずに抱きつけばべったりと張り付いたシャツ越しに伝わってくるお互いの体温。半兵衛の脈打つ鼓動が聞こ
えた。頭に頬に、半兵衛の髪から滴る滴が落ちて来るけれど、彼の胸板に顔を埋めてしまえば気にはならな
い。代わりに私の肺いっぱいに、大好きな半兵衛のにおいが広がった。雨はまだ止まない。半兵衛が言った。


「風呂、沸かしておいた」



すいようび、雨がざあざあ降ってきて