三秒で傷つく人 番外
「してよ」
口の端を僅かに歪めて強請る半兵衛の表情は、普段の澄ました彼からは想像が付かないほどに歳相応に子供っ
ぽく見えた。考えてみればまだ十歳なのだから子供っぽい反応をして当然なんだけれども、それはさておき。
私は眉を寄せて困ったようにして半兵衛に微笑む。上手い返しが見つからず子供に言い負かされる大人など大
人として失格だろう。親はいつだって、我が子の前では敢然としていなければいけない。分かってはいるのだ
が、今の私には言いようが無い。半兵衛のじっと見て来る視線に居た堪れず、目を足元に広がる白い衾の皺と
いう皺へ反らして時間を稼ぐのに必死だった。ああ不甲斐ない。やはり私がこの頭の良い子の親代わりをする
のは難しすぎたのではないだろうか。こんな時になるといつもそう思う。私が半兵衛に口で勝てたときなどあ
っただろうか。さてそれはともかく、現状をどうにかするのが先だ。子供の為にどうすればいいのかを判断で
きない私はそこで又一つ、己の無力さに小さく溜息を吐いた。それを全く逆に、この話題に辟易していると取
ったらしい半兵衛は私を睨むようにして言った。
「聞いてるのかい?」
「・・・聞いてます」
十歳の子供とはいえ、半兵衛の怒り顔は中々に見るものを怯えさせる迫力があった。顔立ちが綺麗なのが理由
にあるかもしれない。それから滅多に強い感情を面に出さなというイメージからも。その半兵衛は私の対面に
座し、小さな夜着の袖から出る小さな手を自らの膝の上に握り置いていた。微動だにせず私を見据える瞳とか
ち合えば、決まりきったように言葉を吐く。
「ほら早く。いつまでたっても寝れないよ」
「そんなにして欲しいのですか」
「習慣みたいな物じゃないか。君も此処に来て何を言い出すんだい」
「・・・・」
それは尤もな言い分だった。習慣にしたのは他でも無い私だったからだ。現代で育ち、現代に居たならば大学
生であった私が戦国の世に来て当時七歳だった半兵衛様に懐かれ、その世話役を仰せつかった時。子育ての知
識は愚か、ほとんどまともに子供と会話すらしたことの無い私が参考にしたのは、私自身が覚えている子供の
頃の記憶だった。とはいえ作法や兵法については他の女中さん達がしてくれるので、私がするのは大体が半兵
衛という子供の相手をするだけで。本を読んであげること、室内でかくれんぼや、それから。ともかく他愛も
無いことばかりをして半兵衛を可愛がったのである。それだけだ。どちらかといえば弟を跡取りにと考える半
兵衛の両親の分までも、私はとにかく半兵衛を可愛がった。老成していた半兵衛の仮面のように冷たい顔もそ
のおかげか、私の前では取り外され小さな笑みを浮かべたり怒りを滲ませる事が多くなった。少々聞かん坊の
甘えん坊になってしまったのである。嬉しいからそれもいいのだ。別に。問題は当時七歳の半兵衛にしてあげ
ていたお休みの前の額へのキスを、十歳になった今でもするべきかどうかなのである。早熟な戦国時代である
から、そろそろ異性というのを意識しだす年頃だと思いやめようかと考えたのだが、半兵衛は嫌がる素振りも
照れることもない。完全に私を親だと思っている表れなのかもしれないが、場所はどうあれ接吻であることに
間違いはないので止めるべきだと判断した。逆に言えばこれだけ反応がないのだ。お休みのキスがなくなった
ところで然程気にも止めないのでは無いかと思った。それでいつものように就寝前の挨拶だけを済ませ、半兵
衛の部屋を出ようとしたときである。
「忘れてるよ」
半兵衛はきちんと覚えていて、そう言ってのけた。三年間毎日欠かすことのなかった額への接吻を、決して忘
れてはいなかったのだった。何を、とは聞けない私は曖昧に頬笑み、はぐらかして部屋を出てしまおうかと考
えたのだが、そうはさせまいと半兵衛は私の袖をきっちりと掴んでいた。忘れたわけではあるまいとでも言い
たげな強気な瞳。障子にかけた私の右手を睨む彼の小さな眉間には此処最近で一番の皺が刻まれている。とは
いえ、大人と違い子供がする不機嫌な表情というのはどうも可愛らしい。場違いにもその眉間をつつきたくな
る衝動をなんとか押さえ、私は今日はしないのだと穏やかに控えめな返事を半兵衛にした。ここで穏便に引き
下がってくれれば良かったのだが、半兵衛の顔はみるみる不安そうになり、吊り上げていた眉は一気に下がっ
ていってしまった。
「僕が嫌いになった?」
「そんな、まさか」
「でも、嫌なんだろう?」
先程とは打って変わって、随分と哨らしい。向き合って座れば自分の胸元までしかない半兵衛の背丈は、項垂
れることによって更に形を小さくしていた。病弱で他人との接触も少ない半兵衛は、実はさびしがりだ。膝の
上に置かれた拳が不安に緩んだのを見て、心が揺らぐ。だが半兵衛の将来を思えばそうも言っていられない。
心を鬼にする時だって必要だ。
「半兵衛様ももう十になったのですから」
「・・・」
「いつまでも乳母に寝る前の接吻をして貰っているとなると、城じゅうの噂になりますよ」
そうだ。実際に、子に接吻はするかというこの時代の親子事情を女中や城主様に聞いた時に、目を点にして聞
き返された事があったのだ。その時にようやくしてはいけないことだったと気付いたのだが、時すでに遅し。
その時には既に習慣づいてしまっていた。ただ、思い返してみれば私も小さかった頃、随分大きくなるまで母
親と手をつないでいた記憶がある。それと似たようなものかもしれないと思った。それまであったことが急に
なくなるというのは、確かに寂しい物。俯く半兵衛の白い髪を撫でる。驚きに持ち上がる顔に浮かぶのは期待
が半分と不安が半分で、私は諭すように言った。
「今日、今日が最後ですよ」
「ああ」
「明日からはありません」
「分かった」
「半兵衛様はもう十歳ということをお忘れなく」
「心得てる」
まだたったの十歳のくせに、随分としっかりした返事をしてくるのがほんの少しばかり憎らしくて、私はその
額にキスではなくデコピンをお見舞いしてあげようかと思ったのだが、嬉しそうにじっと目を閉じて待つ半兵
衛を見ると、そんな気持ちはどこかに行ってしまった。代わりになだらかな額に唇をつけて、小さく音を立て
た。
「これで、夢でに会える」
覚えているわけがないのに、子供は微笑んだ。
イエス、ビーナス、忘れない
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