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「ザビー様が飼っても良いって言ってくれたの」 放心したような笑みを浮かべる少女の腕の中で、抱かれた子犬が弱々しく鳴き声をあげた。そうなんですか、 と珍しく心此処にあらずな宗麟が返した空っぽな言葉。 それを受けても尚、●は笑みを崩すことはなかった。 「かわいいよ」 「良かったですね」 「宗麟もだっこする?」 「衣服に毛が付きそうなので遠慮しておきます」 「つめたい」 そう言い頬を膨らませる●の頬を、宗麟は衝動的に抓っていた。よく伸びる。 すぐに「いたいよ、やめて」という先程の子犬と同じ位い情けない声があがる。あまり虐めると後が面倒くさ い。●はこれでもかというくらいに泣き虫だ。宗茂の小言はたくさん。 宗麟が無言で手を離すと、●の白い雪のような頬っぺたは既に赤く色を変えていた。 ああ、しまった。やりすぎた。宗麟は少し後悔する。 「ひどいよ宗麟」 「・・・ザビー様はどこにいますか」 「お昼まで礼拝堂にいるよ」 「そうですか」 ●が指差す宗麟の背後。重く閉ざされた石の扉の奥からは鈍重な声が洩れ聞こえる。 その礼拝室へと続く真っ赤なカーペットを一歩踏み出せば、外套に引っ掛かりを感じた。渋々振り返る宗麟 に、裾を抓んで引き止めた●が別れ際の笑みを浮かべて言った。 「わんちゃん、宗茂さんと一緒に見に来て」 「生憎。貴方と違って僕は忙しいのです」 「・・・残念」 ●の声に呼応するかのように、子犬が情けなくくうん、と腕の中でまた鳴いた。 鼻と耳の辺りが黒々として、全体を狐色の毛に覆われた犬。あまり綺麗ではないと、宗麟は思った。拾ってき たのであれば当然か。犬を大切に抱える●の袖も、同じように泥に塗れてしまっている。汚い。 それでもおそらく、ザビー様は「シカタガアリマセンネ」と言って、頭をなでて上げたのだろう。 犬ではなく●の頭を。 「不信人め」 礼拝堂に入り扉を完全に閉めたところで、抑えていた感情が遂に口をついて出てしまう。 ●はザビー様のお気に入りだった。 宗麟はその、宗主に甘えて勉学を怠る彼女のいい加減さを気に入らないと思っていた。 -- ちゃりん、と音を立てて銀スプーンが床に落ちる。 「すみません」 「オー、キニスル必要はアリマセーン」 取ろうとして背を屈めた●を主が手で制した。彼はいつも●に甘い。 右手に持ったスープ用のスプーンを置いて、テーブルの隅にある杯を銀で叩く。短く、それでいて高い音が二 回。間もなくしてやって来た家来の一人に、新しい銀食器を持って来るように命じた。 「今日の宗麟は冷たかったです」 「ソウイウトキモアリマース。ソーリンはシャイなアンチキショウってダケヨ」 「ザビー様、宗麟は子犬を気にいってはくれませんでした」 「ザンネンネ」 「わたしが嫌いみたいなんです」 二人の間に置かれた燭台に灯る火が、銀食器を持ってやってきた家来が起した風でゆれた。その日の夕飯時の 雰囲気は大抵●の一日の気分に寄る。宗麟がああ言ったこう言った。そんなことばかり。 それでも主は少女の話に耳を傾けてあげる。恋は罪。愛は悪。応援は出来ないが、オニキスの瞳が物憂げに沈 む日は、宗主の気分も同様に沈んでいくのだった。 「ザビー様。子犬に名前をつけてくださいませんか」 -- 「道の邪魔です」 「わんちゃん、ご飯を食べてくれないの」 「聞こえませんか。邪魔だから退けと言っているんですが」 「どうしたのかな」 城内に設けられた簡易な礼拝室の扉の前で、身を屈める小さな姿を見つける。夕餉を終えて寝る前の祈りを捧 げにやって来た宗麟を振り返る●。 その腕には、朝見たときのように子犬が抱かれていた。 宗麟は、うんざりした。 「祈りは終えたのですか」 「まだ」 「出席を怠るなど、不信人もいいところです」 「急がば回れ?」 「あなたは回ってばかりで、行くことをしませんね」 「宗麟は偉いのね」 「貴方の信仰心が足らなさすぎるのです」 「そんなことは」 そこで口を閉ざす●。不思議に思い見れば、子犬が体を震わせ鳴いていた。 鳴くというよりは咳に近いかもしれない。慌てだす●に、それみたことかと宗麟は笑む。 「罰が当たったんですよ」 「え?」 「真面目に祈りを捧げ、勉学に励む事もない。これはその天罰です」 そこで宗麟の三歩後ろに控えていた宗茂が主の名を呼んだ。口が過ぎるとのお咎めだった。分かっていた。そ れでも、●という存在が気に入らないのである。 宗麟は腕に抱いた犬を涙と共に見つめる●を苦い思いで見やる。それは羨望故の、嫉妬。 「・・・宗茂に頼んでおきます。礼拝時間に遅れればお小言を頂きますよ」 「一緒に行ってくれる?」 「早く立ちなさい」 「うん」 経典を片手に、もう片方の手を●の為に伸ばしてやると、嬉しそうに重ねられる。 宗茂を置いて石造りの階段を二人で登っていけば、背後から●の笑い声が聞こえた。 「イブっていうのよ。わんちゃんの名前」 「・・・そうですか」 「ザビー様がつけてくれたの」 -- 椿が咲き誇る庭の隅に、木で組まれた十字が人目につかず立っている。それは最近、冬の終わりを待たずして 失われた一つの命の軌跡だった。黒のローブを重そうに揺らしながら、大柄な男がその前に立つ。石で掘った と思われるこの国の文字がそこには刻まれていた。『いぶ の はか』優しい字をしている。 「宗麟が、花をくれました」 「ヨカッタデスネ」 「はい。でも犬はかえって来ません」 「イノチアルモノハ、ヤガテシニマース」 「●は罪深いです」 「ナゼ?」 「悲しみよりも、喜びが勝ったのです」 振り返れば、●の手には黄色の花が一本握られていた。この国の言葉で、それは「キク」というのだそう。 まだ瑞々しいことから、それを受け取ったのがつい最近であると分かる。犬が生きていればその手は自分を撫 でるためにあるのだと言って吼えたに違いないが、それでも少女は花を選んだだろう。 「これは、大切に飾っておきます」 「イブニハドウシマスカー?」 「ごめんなさいって、謝っておきます」 初めから、天秤にかけるまでもない二つだったのである。●にとっては。 その●の瞳は今日も曇る。冬空の暗雲が如く。主はお手上げだった。 「ザビー様、●は宗麟が好きなんです」 -- 「あいらぶゆう、って言って」 「なんです?それは」 「ザビー様がそう言えって教えてくれたの」 ザビー教の休憩時間の合間を縫って、●はよく宗麟のもとへやって来るようになった。 あの日きつく言ったことが効いたのか、最近の●は勉学をさぼらない。 礼拝の時間も守り、床に着く前の祈りも欠かさなかった。 それはいい変化だったから、宗麟は以前のように●を蔑ろに見ることは無くなった。 「あいらぶゆう?」 「うん」 「南蛮の言葉でしょうか。どういう意味です?」 「意味が分からないから、言っても罪悪にはならないんだって」 「口にするだけで罪悪となる言葉なのですか?」 気になったらしい宗麟は、経典に同じ言葉が載っていないかを探し始めた。異国の文字でびっしりと埋め尽く された紙から、綴りも分からぬ言葉を見つけるのは容易ではない。諦めは早かった。 「貴方、また意味も分からず、せっかく頂いた知恵を持て余すのですね」 「ごめんなさい」 「まだまだ教えが足りていませんね」 「もっともです」 しかし意味を教えてくれなかったということは、もともと大したことではないのだろう。あるいは知らなくて も良いこと。惜しい気はするが、宗麟は頭の内でそう完結させた。 「・・・あ」 「!だ、だめ」 ●が手にする経典から、何かがこぼれおちた。 丁度宗麟の目の前に落ちてきたので反射的に手を伸ば死せば、それよりも早く持ち主に奪われる。一瞬の出来 事だったが、押し花の栞のようだった。しかしそんなものに何故そこまで必死になる必要があるのか分からな い。まるで触れるのを拒まれたようで、宗麟は気分が悪くなる。少々悪くなった雰囲気に申し訳なさそうに身 を縮こまらせる●。仕方がないと溜め息をついて、宗麟は話題を変えた。 「あいらぶゆう、ですか」 「あ、あいらぶゆう、ね。うん」 「なんでしょうね」 「な、なんだろうね・・・!」 顔を赤くさせしどろもどろに喋る●を見て、宗麟は不思議な満足感を覚える。 以前のように、羨望による嫉妬から無意識に頬を抓りたいという衝動も沸かない。 ただ、胸がくすぐったいのだ。 「いびつな響きです」 |