寝ている半兵衛の頭をなでる。眠気はまだ襲ってこない。
半兵衛は明日、大学を卒業する。その後の進路を私は知らない。半兵衛は教えてくれなかった。親は知ってる
だろうけど。就職するのかと思ったけれどそんな様子もない。私はとっくに社会人をしていて明日だって当然
仕事があった。それが今日の深夜を回った頃のこと、半兵衛はそんな寝ていた私にお構いなしというように突
然部屋に入ってきた。抗議をする前に私を素早く抱き上げるとリビングまで持って行きソファに私を降ろして
言った。
「寝れないんだ。姉さんも寝ないでくれ」
正直弟の綺麗だと評される顔を力いっぱいぶん殴りたくなった。それでも今こんな深夜二時に私は半兵衛のた
めに膝を貸してあげていた。どうにも子供の頃に身についた弟の面倒見癖が抜けていないみたいだと溜息が出
る。私は半兵衛に結局甘い。私が甘くしてしまうから、はっきりと拒絶しないから半兵衛も私に縋る、それを
結局また私が許してしまい悪循環して今日まで来てしまったのだ。そのせいで未だに半兵衛は小さい頃と全く
かわらない甘えん坊だ。ただ違うのは、半兵衛が明らかに私を女としてみるようになったということだった。
姉であると同時にそうは見ていない。私が行き過ぎたシスコンだ等と、誤った考えを正したのはいつだったろ
う。多分、ずっと前からどこかで気づいていた。半兵衛を見る。子供のような無邪気な寝顔はそんな背徳の影
を映さない。癖っ毛の髪が天使を髣髴とさせる。私も相当な弟馬鹿だ。
「半兵衛、可愛い」
その言葉に他意はないはずだと、言い聞かせる自分がいつもいた。
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日曜日の朝、一階の方から何かの物音が聞こえて目が覚めた。そのときにはすでに惨劇の後だった。「なぜ姉
さんは僕を拒絶するんだ」そう言って私に向けられた半兵衛の瞳は今までで一番恐ろしく冷たいものだった。
まるで私が半兵衛を裏切ったかのように言って睨む半兵衛。リビングと廊下を隔てるドアは無くなっていた。
階段を下りたすぐ手前で立っていた私の姿に気づいた半兵衛はそう言った後にすぐに近寄ってきて私の顎を掴
んで無理やり引き寄せると瞳をしっかりと見据えて言った。
「僕は何よりも誰よりも姉さんを一番に思っている。他の男に奪われるくらいなら今此処で姉さんを殺す事も
厭わない」
この早朝に何が半兵衛にあったかなんて知らない。ただ今日は私がもらったチケットを持って告白してきた男
の子と映画を見に行く、その日だった。それについて文句は言わせないと半兵衛に言ったのにもかかわらず、
此処に来て半兵衛は我慢の限界に来たらしい。お父さんとお母さんが出張で朝早くに家を出てしまったことで
半兵衛に都合を良くしてしまった結果がこれだった。おかげでリビングはめちゃくちゃになってしまってい
た。静かな脅しをかけてくる弟とこのガラスの飛び散ったリビングで話す気にはなれないと、とりあえず場所
を変えようと思い半兵衛の手を引くとその手を半兵衛が掴み返して逆に引き寄せられてしまった。半兵衛の腕
に収まるが抱きしめるというには力が強すぎた。遠慮だとか優しさなんてものは皆無だった。ただもう逃がさ
ないとばかりに腕の中に私を閉じ込める姿ははまるで小さな子供そのものだ。金曜日に私が言った事に納得は
しなかったものの半兵衛は黙って聞いてくれていたから行っても平気なのだと私は思っていた、現に半兵衛は
土曜日には何も言ってこなかった。それなのに今日になって家を壊す勢いで暴れて私を殺すと脅しまでかけ
て、そこまでして私に行ってほしくないのなら、それはもう。
「行かないでくれ」
「僕から離れるな、」
ああ、これは本気でまずいところまで来てしまっているんじゃないだろうか。半兵衛の白い肌を雫が伝ってい
た。それがぼたりと二粒、音をたてて床に落ちた。涙だった。小さい頃だってほとんど泣くことがなかったあ
の半兵衛が、泣いていた。
「行くな」
命令されているのに、まるでお願いされているような弱い声。異常だとかなんだとか、もうそんなことより私
はただ半兵衛が此処まで、泣くほど追い詰められていたのかと思い、なんて哀れなんだろうという気持ちが沸
いてきた。そうしてその思いが私の胸を罪悪感で満たした。可哀想な半兵衛、そう思って半兵衛の背中に腕を
回したことは、間違ったことなのだろうか。映画はもう、とっくにどうでもよくなっていた。半兵衛をこのま
ま一人には出来ない、その時の私はそんな気持ちで半兵衛を抱きしめていた。後になって、その思いだけで本
当に半兵衛を抱きしめたのか、疑わしくなったけれども、それについては考えたくなかった。
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「僕がこの世で一番大事に思っているのはただ一人だけだ」
半兵衛は、私がいないと死ぬんじゃないだろうか。大学生になった私はそんなことを思うようになった。中学
や高校の頃と違って私自身半兵衛に対する意識が変わった。まず私はどこのサークルにも入らなかった。だか
ら友人もできなかったしあえて作りもしなかった。高校の頃の友人ともあまり連絡を取らなくなって遊びにも
行かなくなって。男性経験など一度も無い。それでいて講義が終わると寄り道をせずにまっすぐ半兵衛が待つ
家に帰るようにした。バイトもい一度だってしたことはなかった。全部、半兵衛のためだった。あの日、私は
映画に行かなかった。約束を放置した。あの男の子がその後どうしたかは知らないけれど私にはあの時半兵衛
以上に優先するものなど無かった。結果その判断は正しかったと思っている。半兵衛の涙があれ以来私のすべ
てを変えていった。私が人と必要最低限の接触しかしなくなったから半兵衛ももう怒ることは無くなったし機
嫌が悪くなることもずいぶん減った。私に対しても変わらず優しい表情でいるようになった。これでいい、私
は半兵衛の涙なんて見たくない。穏やかでいるほうが好きだ。
「愛してる」
いつの間に眼を覚ましたのか。
まどろんでいた私の意識がその声で現実に引き戻された。寝ていたのは私のほうだったらしい、半兵衛が下か
ら私の顔を見上げて意地悪く笑っている。膝がしびれてしまっていた、半兵衛のせいだと恨めしく思って睨む
が半兵衛はどこ吹く風で手を伸ばすと私の頬にかかる髪を耳にかけた。男なのに綺麗な指は、見た目の白さに
反して温かかった。その指先が頬から私の唇へと伝うのを、私は拒絶しない。
「」
熱のこもった呟きが半兵衛の口からこぼれる。その声が何を求めているか分からない私じゃない。だけどそれ
は許してはいけないことで、私は半兵衛のために出来ることはしてあげたいけどこれ以上のことは。
「もう寝なきゃ駄目だよ、明日は半兵衛大学行くの最後でしょ」
「どうだっていい」
半兵衛の手が私の後頭部に回される。
そのことに自分が今とても悪いことをしている気持ちになる。目の前の半兵衛は私を欲している。嫌じゃない
のだ、本当は。だって本当は私も、目の前の弟に、半兵衛に触れて欲しと思っている。私もとうとうおかしく
なったのかもしれない。半兵衛の相手をしていたせいだ。そうだ、そうに違いない。でなかったら触れられた
唇が熱を持つなんてありえないことだ。いつから私は。中学生の頃は、高校の頃は、大学生の時だって、
「どうだっていい、そんなこと」
私の思考を遮るかのように半兵衛が投げやりにその言葉を繰り返すと私の後頭部に回されている手にぐっと力
が込められた。そのまま下に落ちた私の唇は半兵衛のと合わさる。ちゅっと、音を立てて離れる。
「以外は、邪魔なだけだ」
どうしてか、もう戻れないというのに。私は半兵衛の首に腕を回して続きをせがんだ。ああ、私は完全にいか
れてしまった。お父さんとお母さんが帰ってきたらどうすればいい、なんて言うのだ。こんなのは誰も望んで
いないと分かりきっているのに。
「堕ちてしまえば一緒だよ」
半兵衛の言葉とともに反転した視界に、ちらつく蛍光灯が目に入った。朝が来る前に、いっそあれも消えてし
まえばいい。半兵衛の手が服の間から入ってくるのを感じて私は目を閉じた。
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