芽吹き
佐吉という少年がいた。利発で、同年の児よりも優れて賢い子だった。寺に身を置くその少年 がある日、いつものように日も昇りきらぬうちに起床し顔を洗うべく井戸に来た時のことであ る。井戸のすぐ横には、佐吉が生まれるよりもずっと前から立っている、大きな木があった。 丁度よくその木の枝が井戸に持たれかかっているために、水を掬う時には大層邪魔になってい たのだが、和尚の話によれば樹齢五百年を越えるというそうで、切るには勿体無いということ で、特別にその存在を許されている木だった。それで今朝、その木の根元のところに丁度背中 を預けて、足を投げ出し座りこんでいる女を佐吉は見つけた。井戸へと歩み寄る佐吉を気だる げにじっと見ていたが、女人禁制の寺の内部に、人が入り込んでいることを許せない佐吉は口 を開いたのだった。 「何ものだ、貴様。どこから入ってきた」 「はあ。気づいたらといいますか。私はこれでも一応、貴方よりずっと長く此処にいるんです  よ」 「・・・貴様のような者は知らない。見たことも無い。怪しい賊めが」 「賊って。そりゃあねえ、だって私、この木の精霊みたいなものですし。貴方が今まで知らな  かったのも当然ですけども」 言い方がきつすぎやしませんかねえ。とのんべんだらり喋る女は、まだ若い。しかしその口調 はまるで長年生きた晩年の好々爺が孫に昔話を聞かせるかのようであった。その、精霊を自称 する女の間の抜けたような曖昧な喋り方は、しかし佐吉という少年を苛立たせるだけだった。 悔しいが子供の自分ではどうにもならなさそうだと判断した佐吉は、和尚を呼んで来ようと踵 を返したが、丁度その時。名乗っていないはずの名を、女は口にして引きとめた。佐吉、と呼 んで。 「あれです、気が向いたので、貴方の願いを叶えてさしあげようかと思いまして」 「・・・何だそれは。貴様のような怪しい女に何が出来るという」 「まあとりあえず言うだけ言ってみなさい。叶えてあげますから」 ほらほら、と長い着物の袖を振って、女は佐吉を急かした。だが佐吉は、決して女との距離を 今ある距離から縮めようとはしなかった。簡単に警戒心を解きほいほい近付くほどに佐吉は易 い子ではない。だが、子供ながらに好奇心は疼いた。見慣れぬ女がいるという非日常的な朝 だ。それが嘘でも真でも、遊び半分で乗ってやろうと、小さな佐吉は思ったのである。 「そこまで言うならば、出来るんだろうな」
若葉
「おい、。起きろ」 「・・・貴方ねえ。老婆は労わりなさいと言ったでしょう」 「三度声を掛けた。起きぬ貴様が悪い」 「だからって、刀の鞘で叩いて起すとは何事ですか。まったく最近の若者は・・・」 あれから何年かが経った。佐吉と女の奇妙な付き合いは、まだ続いていた。あーやだやだ、と 文句を言いながら上半身を起した女は、名をといった。 何年か付き合いを続ける内に分かった事がいくつかある。女は佐吉という一人の人間にしか見 えておらず、その存在は酷く不確かであった。しかし佐吉自身は、その事をあまり深く考え追 求しようとはしなかった。考えてもきりが無いから諦めていたのである。その年がら年中特定 の木の下で寝ている女は、今日も今日とて昼寝をして一日を潰す。まるで寝たきりの老婆のよ うに、女はその木の根元を動こうとはしなかった。それは初めての出会いから数年が経った今 でも同じで。佐吉と女の不思議な逢瀬は、彼が寺を出て出世をした後も尚続いていたのであ る。そう。佐吉は彼女に会うためだけに、毎度この寺へと戻ってきていた。 数年前に寺にやって来た、豊臣秀吉という男にその資質をかわれて寺を出る事になった佐吉だ が、それはつまり、遊び半分で女に賭けた願いが叶ってしまった事を意味していた。以来、 佐吉は何かあると、度々足を運んではこの遠い場所まで女に願いを叶えてもらいに来ていた。 「・・・はあ。それで今日は一体、何のお願いにやってきたのですか」 「明後日は私の初陣だ。秀吉様の期待に背くわけには行かん」 「ああ、はいはい。成る程成る程。勝つようにすればいいんですね」 「そうだ」 佐吉は出世した。寺の小姓から始まった彼の人生は、今や武将である。その出世の機会を作っ たのは紛れもなくで、だからそういう点では、佐吉は彼女を認めていた。 だが、頼るばかりを良しとする佐吉では無い。与えられた期待に自分の力で答えられるよう彼 はきちんと努力してきた。運だけではなく。それを、は知っていた。 「貴方なら十分、実力でも勝てるはずですがね」 「念には念だ。あやかれる物には全てあやかっておく」 「・・・良い心がけですね、佐吉」 「三成だ」 「ああ、そうでした。貴方、名前が変ったんでしたっけ」 「・・・貴様はわざと間違えたな」 「冗談はわざとやるものですからね」 女は食えない人間だった。三成の言葉の揚げ足を取るわ、気づけぬような冗談を言うわで、後 になってからかわれていたのだと分かる事がしばしばだった。おかげで三成は、人の話をよく 聞けるようになった。言葉の裏にかすかに含まれている侮蔑ですらも、その意図に気づけるよ うには、彼女との会話を通して成長した。だが、その違いは相手に政治的悪意があるか無いか である。女の戯言など、可愛いの内だった。 「木を切るぞ」 「あーあー、まったく。少しからかっただけでこれですよ。大体何故人間というのは名前を変  えるんですかね。面倒くさいったらない。佐吉で十分じゃないですか」 「老いぼれの世迷言はいい。とっとと私の望みを叶えておけ」 「はいはい分かりましたよ佐吉。勝ったら報告にいらっしゃいな」 「分っている」 「あい、ではいってらっしゃい。気をつけて帰るのですよ」 「ふん」 次に会うのがいつかは分からない。二人の逢瀬はいつも、三成の都合によった。
梅雨
「元気が無いな」 「まあ、そういう時もあります」 それからまた少しして、三成は寺へとやって来た。この度の戦勝報告と、次の願いを叶えて貰 うためである。女はいつものように木の根元に背を預けうつらうつら舟をこいでいたが、どう にもその顔色は優れないようだった。少し青白い頬、額に手を当て熱がないかを見る仕草は、 人間のそのものだと三成は思った。 「はあ。夏ばてですかねえ」 「木の分際でか」 「みたいですね。私も今一自分の事なのによく分からないんですが」 「・・・」 「まあ、じきに治るでしょう」 別に倦怠感があるわけでも無いですし、と付けた女は三成へと向き直るといつものように、 今日はどうしたのかと決まりきった言葉を紡いだので、この話はそこで終わりとなった。 「秀吉様が戦へ赴かれる。無事に帰ってこれるようにしろ」 「それは彼が望む事であって、貴方の望みでは無いんじゃないですか」 「私の望みは秀吉様が天下を取る事だ。間違っていない」 「そうですか」 「分かったら貴様は、黙って私の言う事を聞いていろ」 「はいはい。なんとまあ横暴な願いの仕方もあったものです。しかし佐吉」 「何だ」 「彼が天下を取れたとして、貴方をいつまでも側に置いておく保障は無いのですよ」 「・・・だったら何だ」 「いざという時のために自分の身のふりも考えておかなければいけないと言いたいのです」 「秀吉様はご恩を怠るような方では無い。有り得ん話だ」 「・・・さいですか。それなら好きにしなさい」 しかし女の五月蝿い言葉は、いつも正しいと三成は分かっていた。
立ち枯れ
「おい」 「・・・なんです?」 「貴様、明らかに以前より、弱っていないか」 「ああ、ねえ。どうしたんでしょうかねえ」 私もよく分からないんですよ、そう言った女は木の根元に背を預けてはいなかった。地面に伏 せるようにして、身を横たえて眠っていた。それは三成が彼女に会ってから初めて見る弱った 姿だった。季節かあるいは気温が関係しているのかと三成は思ったが、まだ冬では無い。三成 が一歩近付くと、女は体を起し幹に背を預けていつものような姿勢をしたが背骨が安定しない のか、すぐに体を横へ傾けた。 「なんだか、疲れてるんですよねえ。やっぱり年でしょうか」 「・・・いつからだ」 「あー・・・。実は以前会った時からなんですけれど」 「何故早く言わない」 「おや、心配してくださるのですか」 からからと笑って、女は貴方らしくないですねと言った。しかしふう、と息を吐き苦しそうに 胸を上下させる姿を見ていると、あまり状態がよく無いのがすぐに分かる。木の精霊とやらが 人間と同じく風邪を引くのか病気にもなるのかは分からないが、それは確実だった。 熱いのだろうか。女は三成がいるのも気にせず着物の合わせを掴むと、風を内に入れる為にう ち扇いだ。谷間が見える。 「止めろ」 「すみません」 女は止めた。代わりに手を扇子の代わりにして扇ぐフリをした。ついでに言っておくと、今日 は断じて猛暑でも、小春日和でも冬晴れでもない。曇りである。だから三成には薄っすらと汗 をかいた女の姿が、奇妙に見えた。少しして落ち着いたのか、女はそれで。と口を開くと三成 を見たが、三成はどうにも、いつものように望みを言う気分になれなかった。 「今日は何を?」 「・・・いや、いい」 「いいのですか?」 「大したことでは無い。私はもう、貴様の力を借りずともやっていける」 事実ではあるが、三成なりの、女の体調を思っての遠慮だった。だが女はそれを分かっていた ようで、遠慮はしなくていいんですよ、と言った。だが三成は再度断った。すると今度、それ まで飄々としていた女の表情には僅かな影がさした。 「もう、私の力に頼らなくてもいいと仰るのですか」 「そうだ」 「それはそれは寂しいですね。貴方が遊びに来てくれなくなってしまう」 「・・・」 「まあ、たまには顔を見せにくるくらいしてくださいね」 初めて見た、思い人を待つかのような寂しげな表情に、三成は言うべき言葉があるはずだっ た。だが、言おうとしてやめた。
寿命
「おい」 「ああ、来ていたんですね。すみません、気づきませんでした」 最後に三成が女に会いに行ったとき、彼女は力なく地面に四肢を放り出していた。三成にはそ の女が、木の根元に打ち捨てられた死体のように見えた。本人には言わないが。 だが、女の頭頂部を見下ろせる位置までやって来た三成に、女はその考えを見越していたかの ように言った。 「寿命なんですよ」 「・・・・・・・」 三成は利発だった。だから女の死期が近い事を何となく以前より分かっていた。それを、知っ ていましたか、と言う女は、三成が気づいていた事さえも知っているように笑った。 髪に隠れてしまった女の目が三成を見ているかは分からない。天か、あるいは何百年を共にし た大地を見ているのかもしれないし、あるいは単純に、瞼を閉ざしていたかもしれない。三成 は足元に転がる女の存在を、やけにちっぽけに感じた。 「・・・木の癖に、人間の私よりも早く逝くというのか」 「あなたねえ。私は貴方が生まれる遥か以前より生きているのですよ」 「もう会えないのか」 「どうでしょう。まあ、木はともかく私が消えることは確実ですが」 「・・・おい」 「はい?」 女は伏せた顔をあげた。三成と目が合うが、その三成はすぐに天を見上げ、女の本体であると いう大樹の枝に目をやった。 「花が咲いている」 「ああ、狂い咲きですね。それがどうかしましたか」 「私に一つ、持たせろ」 「餞別ですか」 「・・・次に会う為だ」 「なるほど。妙案ですね」 「名案の間違いだ」 「貴方、そうやってふざける事も出来たんですねえ」 「・・・・もういい。貴様はとっとと死ね」 女は寂しそうな表情をした。そして二秒後に「相変わらず、きつい言い方をしますね」と苦く 微笑んだ。冗談にしても性質が悪かった。そう気付いた三成は、己が吐いた暴言を内心で少し ばかり後悔した。女は己の天に咲く白く小さな花を仰ぎ見ると、言った。 「どうぞ。好きにお取りください」 許しが出たから、三成はその通りに右手を花の付いた枝に伸ばした。そして中央が桃色に色づ いた花を一枚とって、見た。 「佐吉」 「何だ」 女は三成にしか見えていなかった。女がこの世に存在していたことを証明する物などこの世に は何一つ、ないのである。だから花が、三成には必要だった。 「・・・なんでもありません」 言おうとして開いた口を閉ざし、女は瞼も閉じた。死人の様で、三成はまだ生きているかを知 りたくて、声をかけた。 「おい、」 「何です」 「次は、人間に生まれて来い」 木では、貴様を娶ってやることもできない。そう続けた言葉に、は笑った。 「はい、そうします」
菩提樹になれなかった木を思って