は声を出さずに泣く。人目を忍んで、いつも影でひっそりと涙を袖に湿らせるだけだった。
だから彼女が泣いている事に気がつく人間なんてほとんどいなくて、僕はそれを目にするたびにどうして彼女
が人前で泣かないかを不思議に思った。男ならそういうのを気にするのは分かるけれども、彼女は女だ。悲し
いなら、少しくらいそれを表情に出すなどしても良いのにと思う。何も言わず、ただ申し訳無さそうに謝るだ
け。泣き顔を人に見せないようにするということは、人に気を使えるという点で優しいんだろうとは思う。だ
けどこの間、手洗い表示になっていた僕のセーターを間違って思いっきり洗った挙句に乾燥機にまで入れたせ
いで縮んだ事をこっぴどく咎めた時の事。(ここで注意して欲しいのは、僕が怒ったのはそれが一度目ではな
く二度目だったからということだ。初めての失敗だったならば僕だってそう酷く責め立てはしない)同棲する
に当たって、僕の洗濯までを請負うと言い出したのは他でも無い彼女自身だったのに、それがこの有様だ。二
万円もしたセーターを一回着て駄目にされたのではさすがの僕も辟易する。自分が言った事の責任くらいは果
たすべきだよと、僕がそう言って責めると、例によって彼女はごめんなさいと頭を低くしそれはもう済まなさ
そうに謝った。この世の全ての悪事は私が原因だと言わんばかりの謝罪は、確かに見ているこちら側に言い過
ぎたかな、というような罪悪感を植えつける気はしたけれども、だからといって悪いのは彼女なのだからそれ
で簡単にもういいよなんて許す僕では無い。そもそも身近にそういう女性が一人いたおかげで、僕はすっかり
女性が男に対して行う、そういうものに対する耐性がついてしまっていた。確か浅井の、まあいいや。ともか
く最初の頃はそこで仕方ないと許してしまっていたそれも、彼女が他にも同じような失敗を何度も繰り返すう
ちに慣れてしまったのか、口で酷く咎めるようになってしまっていたと言うわけだった。対策を講じない僕も
僕だけど。ともかくだ。そうするといつの頃だったか、彼女が夕飯を作る時になって台所でこっそりと、涙を
拭うようになった。今まで僕が気づかなかっただけで、これまでもずっと彼女はそうして人目を忍んで泣いて
いたのかもしれないけれど、どうであれその姿を見てしまった時の、僕を襲うあのなんともいえぬ罪悪感。そ
れがしかも、僕が彼女を怒った時に限って、その日の夕飯が僕の好物だったりするものだから、余計に。火を
つけたままの鍋を前にして泣く彼女の後姿を、見なければよかったと心底後悔させられるのだ。
「君はもう少し、僕に弱みを見せてもいいと思うんだ」
見ようと思ってみたわけじゃない、と付け加えて台所に足を踏み入れると、驚いて振り返った彼女が涙に色を
変えた袖を体の後ろに隠した。もう見てしまったんだから、そうする必要は無いのに。彼女はとことん頭が悪
い。そのままとことん頭が悪くて、もう少し強気になって言い訳するか言い返すかしてくれれば良いのにと思
う。押し黙ってしまって居心地悪そうに瞳を台所の床に伏せてしまうのを目にすると、まるで僕が悪者にでも
なっている気分だ。何か言いたい事はある?と聞いてみた。謝罪はもういらないよ、と語尾につけると、彼女
は一度目を擦ると視線を僕に合わせた。
「半兵衛は私の泣いてるところなんて、見たい?」
「・・・どうだろう」
「うざいと思うでしょ」
「さあ、そこまでは」
分からないけど。僕は呟いた。そもそもそういう話じゃないと思うんだけど、彼女はあまり頭が良く無いから
論旨を理解しない。今僕がした質問の意味だって、分かっていないだろう。それを訂正するのも面倒だからと
放置しておく僕にも非はあるけれども。おかげで会話はどんどんかみ合わなくなる。
「だけど僕が言えることは、影で泣かれているのを目にするのは、気持ちの良いものじゃないってことかな」
「ごめん。次からは、もっとうまく隠れるから」
「そうしてくれると助かるよ」
泣かないのが一番だけれどもそれはしないんだね。そう言いたくなったけれど、口を開く事もせずにやめた。
また泣かせてしまいそうな気がしたし、そもそも風呂でなら瞼を赤くする事も無いのに、そうしないのであれ
ば台所で泣くのはわざとな気がしたからだ。僕が彼女を泣かせたのだと、アピールして当てつけるためにやっ
ているのだろうかと最初は思ったけれど。そうじゃないと、すぐに僕は気付いた。
「どうして僕の腕の中で泣こうとしないんだろか、君は」
それは凄く悲しいことだった。僕は知っていた。二万もして僕が買ったセーターを一週間もしないうちに駄目
にする君。それがわざとであることを。なのに、僕は結局君を許してしまう。それは他でもない、僕の中の彼
女への愛がそうさせるからだ。僕はこれからだって、どんなに鈍くて馬鹿な彼女でも手放すつもりは無いし、
この先だってすっと寄り添っていきたいと考えている。だけどそう伝えようとする前に、彼女の瞳には新たな
大粒の涙が浮かぶ。
「僕が泣かせた君の涙を、拭かせてもくれないんだね」
それも出来ない。他でも無い、彼女がそれを望んでいないからだ。僕にとうとう嫌気がさすまで、彼女はこの
行為を続けるだろう。時間の問題なのだろうか。彼女は僕と、別れたがっていた。
セーターと毛糸
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