私の天使さま。
私は所謂オタクだ。小中高とまだ短い人生のほとんどの時間を漫画とゲームと その他あらゆるオタク活動に費やしてきた私にとって、秋葉原は自分の部屋も 同然。ロリ薔薇百合、その他あらゆるジャンルの萌えを極めた私にとって受け 入れられないジャンルはもはや無いとまで言い切れる。そんな二次元に恋をし て二次元に心を置いてきた私にとって、現実世界ほど辛いものは無い。まだ中 学生だからと勉強そっちのけで漫画を読みふけっているうちに高校生になり、 ボーカロイドに萌えているうちに気づけば受験生になり。段々と社会へと羽ば たいて行かざるを得ない状況に追い込まれていく日々の中で、それでも私が唯 一安息と休息を取れる場所が、学校帰りによる自分の部屋、秋葉原という聖地 だった。だというのに。小中と碌に勉強をしてこなかったせいで塾に行かせら れるようになってからは秋葉原による回数もぐんと減り、行けたとしても大抵 の店が閉まってしまった後の、見るものも全く無い時間帯になってしまった。 どんどんと私のオタク生活は壁際においやられていき、机の上に乗るものも漫 画から参考書へ、以前は初音ミクのフィギュアが置かれていたタンスの上も過 去問題集と辞書が占拠するように変った。オンリーイベントに行く日も模試へ 行く日となって、夏コミすらも夏期集中講座のために諦めなければいけなくな り、ああ、私のオタク人生ももはやこれまでかもしれないとリア充の仲間入り を覚悟し始めた、そんな時でも。そんな時でもだ。私がこれまで、決して欠か した事の無いオタク活動が一つだけある。たった一つ、雨の日でも嵐の日でも どんな日でも、必ず指定された夜9時に秋葉原に通い続ける理由が未だに一つ だけあった。 「私のファンのみなさーん!!」 マイクを通す声は大きいにも拘らず、耳につかない程度の丁度いい高さをして いる。雀のように黒目がちな瞳が私を含めた周囲のファンを映すと、可憐にウ ィンク。夜空に星を掛けるかのようなそれにファンの喚声は最高潮に高まる。 私の胸もドキドキと速くなる。顔の輪郭線にそって切り揃えられた彼女の優し いおかっぱが、夜風に揺れて幻想的だった。 音を紡ぐたびに形を変えるピーチピンクの唇を、私はもう三年は見続けてい る。今夜もだ。 「「「「鶴姫ちゃーん!!!!」」」」 彼女を応援する声のほとんどは野太いものだけれど、いくらかは女性の声も混 じっている。私も男の声に掻き消されないようにと、毎回精一杯に彼女の名前 を叫んでいた。気づいてくれないだろうか、そんな淡くも虚しい期待と祈りを 込めて彼女の名前を口にする。一曲歌い終えてファンの皆に挨拶をする彼女、 鶴姫ちゃんはマイクを両手で握り締めると、朗らかな笑みを浮かべて一度会釈 をした。 「こんばんは、みなさん!今宵もお会いできて嬉しいです!!」 可愛い。あれは、本当の天使だ。 初めて鶴姫ちゃんを見たのは三年前の、丁度高校受験の頃の事だった。チャッ トで知り合った先輩のオタクが、受験勉強の息抜きになればとこっそり、顔も 知らない私に一枚のチケットを郵送してくれたのである。それはどうやら本物 のオタクしか知らない、テレビに出演するような俄かアイドルでは無い、本物 のアイドルが来るというイベントの招待状らしかった。月に一度しか行われな い幻の路上ライブ。それを聞いて、私はその伝説のアイドルの存在を今まで知 らなかった自分自身を恥じた。秋葉原において私が知らない事があるなんて。 印字された日時、私はチケットを握り締めて指定の午後9時に秋葉原の路上に 向かって走った。そこで見た、天使の姿。 どんなぶりっ子娘が出てくるかと思っていただけに、その溌剌とした媚び過ぎ ない明るさは新鮮だった。闇夜に浮かぶ巫女服とセーラー服を掛け合わせた衣 装はネオン看板で禍々しく歪む街に、純白可憐な天使が舞い降りたように見え た。私が初めて、三次元の人間で可愛いと思った子だった。 「今日も来て下さったんですね」 「は、はい・・・!勿論ですっ!!」 「嬉しいです、ありがとうございます」 「い、いえ・・・っ!そんな・・・」 ライブの後には必ず握手会がある。私はそこで三年かかって、彼女に顔を覚え て貰うことが出来た。三年経った今、自分に向けられるのはアルカイックでは 無い、彼女の心からの優しい微笑みだ。他でも無い、私の三年間の努力と彼女 に掛ける想いの賜物である。 50センチもない至近距離で両手をしっかり握ってくれる鶴姫ちゃんが可愛く て、私は自分の顔が真っ赤に染まるのを自覚する。忙しい塾と学校の合間を縫 ってライブに来て本当によかった。これでまた一月後の定期ライブまで受験勉 強を頑張れる。そう思って、名残惜しくも彼女の手を離そうとした時だった。 「あの、」 控えめな、鈴の音が転がる音。今日はいつもと違っていた。手は未だに離され ておらず、鶴姫ちゃんと言うアイドルの手が私の手を優しく、それでいて控え めに包みこんでくれていた。ファンが手を離さない事はあっても、アイドルか らなんてのは初めてだ。とっくに力を抜いた私の手を鶴姫ちゃんが握ったまま で語りかける。白すぎない、温かそうな手。只でさえ緊張しているのに、私の 頭はそれだけでもう真っ白だった。 「は、はい・・・?」 「お名前を、聞いても良いですか?」 「え・・・?」 「あ、えっと」 何が起こっているんだろう。三年間、一度としてこんなことは無かったのに。 鶴姫ちゃんが、私に話しかけてくれている?私の後ろにはまだ鶴姫ちゃんとの 握手を望むファンの長蛇の列が続いている。なのに、たった一人のファンなん かのために時間を割いて、大丈夫なんだろうか。 おどおどと惑う私の頭には、鶴姫ちゃんが何を言いたいのかなんて分かるわけ もなく、ただ言葉を選びかねている目の前のアイドルを眺めるばかり。 「いつも、来てくださっているので!よろしければ!」 「あ、えっと。名前、私の名前は、って、言います・・・!」 「さん、さんですね!」 「はい、はい・・・!そうです!」 「さん、今日はありがとうございます」 「はい!はい!」 「さん!」 興奮した私につられてか。鶴姫ちゃんまでどこか勢いづいて返事を返してくれ る。名前を聞いてもらえた嬉しさと感動で顔が真っ赤であろう私は、鶴姫ちゃ んに「はい」という単純な返事しか出来ない。 だけどこんな挙動不審にも拘わらず、鶴姫ちゃんは先程よりもきつく、強く私 の手を両手で握りしめてきてくれた。お互いを見つめて、ぶんぶんと随分派手 に上下する手。側に控えていた係員の人がそのくらいで、と言うまでそれは続 いたのである。 「ま、また来ます!絶対に来ます・・・!」 「はい、私も!お待ちしております!」 もう次の人の相手をしていたけれど、衝動的に振り返って叫んだ私を無視する ことなく、鶴姫ちゃんは返してくれた。にっこりと、ほんのり頬を上気させ て。それは正しく天使の微笑み。 私はというと、名前を聞かれたことで頭がいっぱいで、彼女よりも真っ赤な顔 をしているに違いなかった。ああ、でもそれでも一向に構わない。天使に話し かけてもらえたのだから。かわいい。かわいい。やっぱり彼女は私の天使だ。 帰途を急ぐ私の心はふわふわと、まるで羽根の様に軽かった。そればかりに浮 かれていた。 「!こんな遅くまでどこに行ってたの!?塾は!?」 だからお母さんの叱責の言葉などちっとも頭に入ってこなくて、部屋に戻った 私は手に持った塾の鞄を投げだしベッドにダイブしていた。枕に顔を埋めれば 脳裏に蘇るのは鶴ちゃんの微笑み。嬉しい嬉しい嬉しい!!それだけが私の今 の気持ちだった。名前を、聞かれてしまった。天使に、名前を。 「彼氏がいるらしいぞ」 路上ライブからたったの一週間しか経っていない。 ネット掲示板で急に立ったそんなスレッドを見て、私はとてつもないショック を受けた。ご丁寧に証拠画像までいくつか載せられていたために、掲示板は当 然炎上。真っ黒な洋服に身を固め帽子を目深に被った男の人と話をしている写 真は私だけでなく全てのファンの目に焼きついた。メディアに出ないとはいえ 鶴姫ちゃんの人気の高さが伺える出来事だ。乱立するスレッドの数々にはあの 人気アイドル鶴姫ちゃんが汚れたと嘆く声や、ここぞとばかりに掌返しで鶴姫 ちゃんを叩きはじめる人。様々に、好き勝手な書き込みが秒単位で刻まれてい った。頭を殴られたような衝撃は私も同じ。 次のライブに行くのは、止めようか。数々の書き込みを見ているうちにそんな 事を思った。だけど、もしかしたら鶴姫ちゃんは私と交わした言葉を覚えてい て、待っていてくれるかもしれない。もし次の握手会のときに私が来ていない 事を知ったら、鶴姫ちゃんはどう思うだろう。あんなに純粋な子だ、きっと傷 つくに違いない。こんな時だからこそ、私は余計に会いに行ってあげなくちゃ いけないのではないか。そんな風に思った。掲示板に書かれた情報が本当かど うかは自分の目で確かめなければ判断出来ない。他人が言う事を安易に信じる のは本当のファンのすることじゃない。そう、思った。 「あ、さん!ちょっとどこ行くの!?」 「すみません!早退します!!今日だけは三次元は優先できません!」 彼女以外。彼女以外、彼女以外で私に三次元で優先できる物なんて、やっぱり 何一つないんだ。塾に行ったところで、やる気が無いんじゃ居てもしょうがな い。私は教科書とノートを鞄に仕舞い入れると風の様な速さで塾を出た。 今日は、待ちに待った月一の路上ライブの日。鶴姫ちゃんの天使の歌声が聞け る、唯一の日。だけど今日は掲示板で問題があってからすぐのコンサートの日 でもある。覚悟を決めている私はともかく、他のファンはどう思うだろうか。 鶴姫ちゃんが何と言うのかが気になるのもあるけれど、それ以上にファンが怒 って鶴姫ちゃんに何かをしないかが心配だ。だから私はいつもの時間より早く チケットを手に指定の場所へ向った。 「謝罪しろ!!」 「ファンを裏切ったんだ!!」 やっぱり、大変な事になっていた。今回の騒ぎの謝罪をするためか、9時にな る前に現れた鶴姫ちゃんを目にすると、集まっていたファンの大勢は怒りをあ らわにした。マイクを持って真摯にファンを見つめ、罵倒に耐える鶴姫ちゃん は見ていられない。遠目でも分かる程に瞳が揺れていた。 だけどその反応で、私は分かった。鶴姫ちゃんは嘘をついてはいない。付き合 ってる人はいないし、恋人もいない。噂になる人もおそらく。私だって、伊達 に3年間彼女の追っかけをやってはいない。きっと長曽我部元親や毛利元就と いったアイドルの追っかけの女の子達の仕業だろう。何かと共演する事が多い 3人の中で、唯一の女の子である鶴姫ちゃんが気に食わないからと嫌がらせを したんだ。その証拠に、今日、今ここにやって来ている人で鶴姫ちゃんに罵声 を浴びせている声の多くは女性からのものだ。確信した。間違いない。 言い訳としか取って貰えないだろうと考えてか、ひたすら黙ったまま耐えてい る鶴ちゃんは、なんていい子なんだろう。反論をする様子が少しもない。 気付けば、私は叫んでいた。 「負けないで!!」 大勢の罵声に掻き消えた私の声なんて届いていないはずなのに、5メートル先 の鶴姫ちゃんと目があった。確かに鶴姫ちゃんが私を見た。憧れのアイドルと 目があうなんて、今の私は凄いリア充だ。 なんて、そんな事はどうでもよくて。届いていたのだろうか、私の声が。そう だとしたらこの思いを伝えなければ。その一心で、私はひたすらに鶴ちゃんに 向って叫んだ。 「好きです!ずっとずっと応援してます!!ファンです!!!頑張ってくださ  い!!」 「っさん!!!」 嘘かと思ったその瞬間。マイクのハウリングに耳をつんざかれはしたけれども 確かに。確かに鶴姫ちゃんは私の名前を叫んだ。私に向って。 嬉しさか驚きでかは分からない。一瞬で放心状態になった私をおいて、なんと 更に鶴姫ちゃんはステージを降りて私の元まで一直線に走ってきた。ファンの どよめきを気にも留めずに。 「さん」 「え、え!?」 「さ、一緒に」 言葉と共に手を取られた。そのまま走り出す天使。繋がれた手に引きずられる ようにして駆け出す私。まるでドラマのワンシーンのよう。 どうしてこんな事に?ああ、でも胸が高鳴るのを抑えられない。ファンの制止 を振り切って、いずこかへと鶴姫ちゃんは走る。どうして私がお供になってい るのかは分からないけれど、鶴姫ちゃんが私を望んでくれたのなら、人生最高 のラッキーだ。役得。私は走った。天使の手を強く握って。 「・・・ふう。付き合せてしまってすみません」 「い、いえ・・・・!」 「・・・私、この度メジャーデビューが決まったんです」 「え!?あ、お、おめでとうございますっ!!」 夜風が吹いている。前を行く鶴姫ちゃんの短い巫女服の袴が揺れた。天使が止 まったのはそれから10分もした時で、電車の通る高架下という、何とも薄暗 い身を隠すには丁度良いところに来た。向き合い、言葉を交わす事は握手会で 何度もやっている事なのに。それでもこうして真正面で鶴姫ちゃんを見るとド キドキと緊張してくる。メジャーデビューをするというサプライズが、それを 手伝っているのもあるかもしれない。やっぱり、天使には手が届かない。 メジャーになったらそれこそ、鶴姫ちゃんは今よりも余計に遠い存在になるだ ろう。月一のライブも無くなるはず。私の顔が曇ったのを見てか、鶴姫ちゃん も顔を曇らせた。人の感情を察して合わせてくれるなんて優しい子だ。そう思 ったけど、意外にも鶴姫ちゃんの口から出てきたのはその表情にあった、辛い 知らせだった。 「でも、このままではデビューできないんです」 デビューできない。それは一体何が原因で。まさか、今回の騒動がデビューを 延期にしたのだろうか。 「ど、どうしてですか・・・?」 「さんがいないからです」 「・・・・え?」 即答。私がいないから?どうして私?それは一体どういう意味か。 どうしてファンの一人がデビューの妨げになっているのか。混乱に陥る私の手 を再度取った鶴姫ちゃんは、そこで突然私を見つめた。 「さん!!」 「は、はい・・・!?」 「3年間、私にはさんしか考えられませんでした!」 「え、え?」 「どうか私と、デュオを組んでくださいっ!!」 デュオ・・・?それはつまり、組むって事だろうか?二人組みの歌手ユニット のことだよね。私が、憧れの鶴姫ちゃんと組む・・・?そんなのは絶対に無理 だ。あり得ない。天使と組むなんて恐れ多すぎるし、私みたいな平凡女子高生 なんかと鶴姫ちゃんとでは、横に並ぶだけお目汚しにしかならない。 「無理です!!ぜったいに!!」 「いいえ!二人でならきっと!!皆さんの心に思いを届けることが出来るはず  です!!それはもうおっきく、バーン☆と!!」 「で、でも!」 どうしてそれがわたしなのか。私は鶴姫ちゃんを見ることが出来るならそれだ けで満足だ。メジャーデビューは少し寂しくなるけれど、鶴姫ちゃんの歌を皆 に知ってもらえるのが嬉しいのも正直なところ。それでいいじゃないか。鶴姫 ちゃんは鶴姫ちゃんだから良い。もう一人なんて、果たして必要だろうか。首 を傾げ怪訝に眉をひそめる私を見て、鶴姫ちゃんが顔を赤くした。 「それはええと・・・私が、その・・・」 「その?」 「っさんを!好き、だからです!!」 きゃー!言ってしまいました!!!と途端に真っ赤になった両頬を手で押さえ る鶴姫ちゃん。え?だって今回噂になった人がいるよね?と呟けば、それはマ ネージャーの小太郎さんですと言う。なんだ、そっか。安心した。じゃあ私は これからも彼女のファンを続けられるんだ。じっと見つめてくる鶴姫ちゃんを 見て、私は言った。 「私も、鶴姫ちゃんが好きです。ずっとずっと好きでした」 鶴姫ちゃんと出会ってから三年間通い続けた秋葉原、今日は一等、電飾に華や ぐその街が綺麗に見えた。禍々しくない。天使がいるから。

真夜中は純潔

女子高生+巫女+百合=最強。



後にアキバを制す、二人の乙女の始まりの物語。林檎嬢の同名タイトルから。