手に持っている携帯電話を地面に落とすなんて初めてだ。ドラマや映画でこういうシーンが結構あるけれど、
ショックだったとしても本当に取り落とすなんて絶対にありえないと思っていた。というか本当に私は今、自
分が映画俳優にでもなっているんじゃないかと錯覚してしまいそうな状況に置かれているわけなんですが、こ
れがちっとも笑えないというか。とりあえず、捨てられる女の役をする俳優の心情は理解できたけれど。
「メールの返信が来ねえことで気づくだろ、普通」
そう言って右腕に纏わり付かせた知らない女の髪を撫でる彼氏。もう、何がなんやら。一ヶ月前に約束したデ
ートの約束を果たす今日という日に、待ち合わせの時計台の下で胸をときめかせて立って待っていた私。先日
買ったばかりのワンピースとお気に入りの靴。トイレで手を洗ったときに彼に貸すためにとハンカチを二枚入
れたバッグ。付き合って一年の記念にとプレゼントしてくれたネックレスに、彼は気づいてくれるだろうか。
なんて、まるで恋愛映画のワンシーンでも演じている女優のように浮かれ気分でいた私。浮かれすぎていたの
は、反省する。だけど肝心なのは、約束の時間になっても彼が現れなかったことである。事故にあったのでは
無いかと心配して、今何処にいるの？というメールを打ってみた。１０分待っても返信は無かったから、今度
は電話をかけた。一回、二回。十回かけた所でようやく彼が電話に出た。「今行く」やけに声のトーンが低い
なとは思ったけれど、起きぬけなんだろうと思って「早くね！」とせかす言葉を残して電話を切った。それか
ら３０分後、彼がようやく待ち合わせの時計台の下にやって来た。女という、いらない土産を引き連れて。
「分かっただろ？」
そして冒頭に戻る。携帯を落とす前に確認した時間では、本来の待ち合わせ時間より３時間も過ぎてしまって
いて、もうあと２時間もすれば日暮れまで来ていた。私、どれだけ健気。コンクリートに打ちつけられた携帯
電話の無事が気になる。でも今はそれどころではない。
「お前なんか遊びだよ」
胸に刺さって痛いのは冷たい言葉のせいか、それとも彼の横にいる女のせいか。多分両方だ。生まれ出でて云
十年。初めて出来た彼氏だったのに、こんな別れ方ってあるんだろうか。これはもう、男性不信になっても誰
も私を咎められない気がする。いつから浮気してたの、と聞こうとして開いた口も中途半端になってしまって
いた。私が浮気相手ならば、何を言っても嘲り返されるだけだろう。ああ、無情。それにしても遊びだったの
なら、どうして今日の約束の前の日にでも電話でふってくれなかったんだろうか。かすれた喉を震わせ、声を
絞って聞いてみる。
「悪い。お前の存在、忘れてたんだわ」
ああ、もうどこまでもやりきれない。今が映画のワンシーンだったとするならば、雨がザアザア降っていても
いいはずなのに。残念だ。ムードが足りない。今日はどこまでも快晴。今度恋愛映画の会社に、別れは大抵晴
れ空の下ですよなんてアドバイスを言いに行こうか。でもその前に、とりあえず今は泣きたい。泣こうか。涙
に視界が揺らいでいく。そんな時だった。
「！」
私の名前を呼ぶ声がして振り返ってみれば、こちらに手を振って歩いてくる男がいた。誰だろうか、全く覚え
の無い人だ。どうして私の名前を知っているんだろう。悲しみに打ちひしがれる私の心に横から突然やって来
た驚き。戸惑うが、それは目の前にいる彼氏とその横にいる女も同様だった。
「こんな所にいたのか、探したんだぞ」
「・・・いえやす？」
目の前で立ち止まった彼の顔を見て、ようやく気がついた。高校生の頃に一時だけ、席が隣で仲が良かった男
子がいた。それが家康だ。席替えをしてまた別々になってからは全く関係が無くなってしまったけれど、家康
と話したりした時の楽しい思い出は結構あったから覚えている。だけど、家康との思い出なんてそれだけだ。
あれから何年も経ってしまっているのにどうしてその家康が今此処にいるんだろうか。戸惑う私の肩を自然に
抱いた家康は、耳に口を近づけると小さく「ワシに合わせろ」と囁く。
「！こんなところで何してるんだ？待ち合わせは向こうの場所だったはずだろ」
「え、あ、・・・ごめん。うっかりしてた・・・」
ダメだな、と言って頭を撫でてくる家康。爽やかな笑みが私の凍てついた心の中に入り込んで失恋に痛む部分
を和らげる。演技なのに本当に優しくされているみたいだ。家康の爽やかな笑みには、思わず彼の腕にしがみ
付いていた女までもが見蕩れていた。だけど家康に合わせるとは言っても、それまで私の顔に浮かんでいた戸
惑いや悲しみはすぐには隠せるはずもなく、ぎこちなく表情をつくる私を見た彼は、それはもう胡散臭そうな
目で私達を見た。
「・・・おい、なんだソイツ？」
「見てわかんないか？」
そう言うと、家康は私の肩を掴んでいた手に力を入れてぐっと引き寄せた。家康の大きな胸板に頭を押し付け
られる。恥ずかしさで取り乱す私を見て、彼の方は眉を顰めて家康を睨む。二人の間に緊迫した空気が流れ
る。一体家康はどうするつもりなんだろう。私を助けてくれようとしていることに間違いは無いんだろうけれ
ど、それにしては殴り合いの喧嘩でも始めてしまいそうな雰囲気を作り出している。単に引っ掻き回しに来た
だけなのか、思わず疑ってしまう。と、私の肩を掴んでいた家康の手が不意に動いた。家康と向かい合う形に
され目を合わせられる。「許せ」
家康のその言葉を耳に、唇が合わさった。視界に入るのは家康だけ。「な・・！」驚く彼とその女の声が聞こ
えるが、しかし一番驚いているのは他でも無い。キスをされている私自身である。何がどうしてこうなった。
どうあって突然やってきた第三者に唇を奪われるまでされているのか。フリーズする私の頭、気付けば、舌が
入りこんできていた。
「・・・っ勝手にやってろ！！」
男と女が去っていく。私の恋愛が終わる。終わっていくのにその最後を見届けられない。せめて後姿を見送る
くらいはしたかった。なのに何だこれは。よしんばこれが私を捨てた彼に対する見せつけで、報復であったと
してもだ。彼らが去っていた以上、キスを続ける理由はもう無いはず。なのに、家康の唇は離れない。どれく
らいそうしていただろう。がっちりと家康の逞しい腕にホールドされ、あまりの苦しさに抱き殺されるのでは
と危険を覚えた頃。これはまずいと強く胸を叩いて苦しいと訴えれば、それでようやく家康の唇は離れた。唇
を舐め、家康が口の端を吊り上げて少年のように笑う。不覚にもその仕草にくらりと眩暈を覚えた。
「ははっ、やりすぎた。悪いな」
「やりすぎよ！本当に悪い！！」
「好きだ」
「すっ、・・・・・え？」
息も整えず家康を責めれば、どういうことだろう。何やら謝罪に混じって爆弾発言があった。肩で呼吸を繰り
返していた私も、さすがに驚いて動きを止める。そんな固まる私の様子を見た家康の、はは、とからり。軽く
笑う声が時計台の下に響いた。目がまん丸だ、と可笑しそうに私を見て言った家康が、続ける。
「好きだ、。ワシと付き合おう」
失恋で弱ってるところ、悪いな。なんて、先程から悪いと謝る割りに、家康の謝罪からは誠意がこれっぽっち
も感じられない。むしろ笑っている。だけどまた、その爆弾発言からは家康の本気、誠意しか感じられない。
笑顔と共に私へと放たれた爆弾の数々は、今しがたふられたばかりの私に対しては少々卑怯すぎやしないだろ
うか。返す言葉が見つからない。
「ずっとが好きだった。ワシがを幸せにしたい」
そんな男らしいことを言われたら。ふられてボロボロに傷ついた私の心は簡単に攫われていってしまう。好き
な人の前でびりびりに破かれたラブレターを、オレにくれと突然現れた第三者に言われているみたいだ。なん
だよ、徳川家康。そんなもの、欲しがるなよ。第一久しぶりに再会したかと思ったら、こんなに男らしくてか
っこよくなっているなんて反則だ。胸が高鳴る。
「・・・私、・・・もうふられるのは、嫌なんだけど」
「大丈夫だ。ワシがを手放すなどありえん」
即答。映画のラストシーンでは、男性俳優が決まって運命の相手役の女性に手を差し伸べる。言うならば、ま
さしく今がそんな状態だった。こちらに手を伸ばし、「行こう」と言う家康に何処へ？と返すのは野暮という
もの。ニカッと笑う家康の笑みはラブロマンスには少し向いていない爽やかさだけど、私の王子様に見えるの
は間違いないので無問題だろう。時計台の針がカチリ。長身と短針が合わさる音がして、同時に夕方６時を知
らせる鐘が鳴る。シンデレラのようなタイミングだった。ゴーンゴーンと、重たい音が響いて、何の奇跡かと
時計台を振り返る。シンデレラと違って、別れの時間を知らせる物では無いけれど。今日が快晴だった理由
が、分かった気がする。
「夢みたいだ」
家康が言った。それは私の台詞だと小さく笑う。ドキドキが始まる予感。
ありふれた魔法使い アンケお礼夢家康
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