思い出せない言葉があります。緑の葉を透かす日の光りに目を細める季節になりました。念願が叶ってとうと
う城勤めのお仕事を得た私はこの度暮らしなれた生家を出て城へ上ることとなり、まだ知らぬ土地への不安
と、故郷よりも遥かに賑わいのある花の都での暮らしに期待を膨らませつつ父と母に別れを告げたのでした。
そんな私に言い渡された記念すべき初めのお仕事は、大友家の次期当主で在らせられる宗麟様付きの世話役女
中という大役でございました。まだ年端も行かず、基本的な雑事も覚えていない田舎上がりの小娘にはあまり
に酷なお仕事のように思えましたが、歳の近いものを所望するという当主様のお達しで私は宗麟様を主に持つ
事となったのです。その当時宗麟様との歳の差は四つ、宗麟様は十一で私が十五であったと記憶しています。
そんな宗麟様への初仕事を兼ねた初顔合わせの日の朝、私はその主を起こしに参ろうと廊下を進んでいたとこ
ろで、庭に素足で降りた同い年くらいの男児をお見かけして偶然にも足を止めたのでした。私と同じくらいの
子供が城で働いている事に深い共感を持ったのかもしれません。気づけば声を掛けていました。  
 
「其処で何をしているんですか?」  
 
私の声に振り返ったのは金の髪を持つ小奇麗な男児でした。まだ青白い空の下で朝霞にかすみおぼろげに見え
た男児でしたが、次には明瞭な口調で声を紡いでいたのでした。  
 
「いえ、大したことではありません。鳥の雛が落ちて鳴いていたのが五月蝿くて目を覚ましただけです」
  
言われた言葉を理解して男児の足元を見れば確かに雛が弱々しく羽をばたつかせて鳴いていましたが、予想と
違っていたのはそれが一羽ではなかった事です。巣そのものが木から落ちてしまっていました。  
 
「ああ、本当に。これは大変ですね」 
  
さてどうしたものかと手にした水桶を持って頭を悩ませます。何せ私には宗麟様を起こしに行かなければなら
ないという責任重大のお勤めがございましたから、おいそれと目先の問題に囚われている場合ではなかったの
です。しかしまた数羽もいる雛を見殺しにすることも出来ませんでした。大人であれば躊躇うことなく出来た
決断でしたが、子供であった私は結局目先の事を優先させたのでした。 
  
「梯子を借りて参ります。雛を見張ってていただけますか」
   
私がそう言うと、一拍の後男児は盛大に嫌そうな顔をしました。訳が分からず私は首を傾げましたが、大層不
愉快だと言いたげな声で男児は口にしたのです。  
 
「誰に物を言っているのです、慎みなさい!」 
 
それはあまりにも高圧的な物言いでしたが、しかし私にはその男児が少々身分の高い子供であると理解したく
らいなものでした。それよりもそんな事を言う男児に怒りを覚えていました。自分の足元で鳴いている雛を助
ける気が無いのであれば見殺しにするということなのでしょうか。そうであるならば幾ら高貴な身の人間であ
っても人間としての中身は空っぽであると思いました。母がよく、私に説いていた言葉です。  
 
「一番最初に見つけた人は助けなくてはいけないと思います」 
  
知らず、私の口からは言葉が出ていました。男児は驚いた表情をして私を見ました。言い返してきたのが予想
外だったのでしょう。加えて的を射いている言葉に返せないのが悔しいとばかりに苦々しく唇を噛みました。
私よりも小さな子には少し強い挑発だったかもしれません。  
 
「見殺しにするのは、武家の人間のすることですか」  
 
これで尚、男児が行ってしまったのならばそれまでです。その程度の人間であったと割り切ればいいのです。
私はそう思いその場に背を向けて梯子を取りに向かったのでした。 
  
「宗茂を呼んでやらせた方が安全です」
「駄目です。私が最後まで責任を持ってやり遂げたいです」  
 
ややあって私が梯子を取りに行って戻ってくると、男児はきちんとそこに立って私の戻りを待っていてくれま
した。驚きましたが、すぐに雛を見ていてくれたお礼を言うと「全くです」と嫌味とも皮肉とも付かない言葉
を返されました。が、根は優しい子なのだろうと思いそれを受け流したのでした。そうして落ちた巣に一番近
い所に生えていた木に梯子を取り付け、一段目に足を掛けたところでぎょっと目を丸くした男児が私に言いま
した。  
 
「お前では間違いなく落ちますよ。止めておきなさい」
「でも皆さんまだ寝ている時間なので起すわけには行きません」
「ですから宗茂を呼ぶといっているのです」
  
どうにも男児には木登りが女子のすることでは無い様に思えるらしいのです。しかし私は山野を分け入り、流
れの速い川で魚を捕まえる遊びをして育った生粋の田舎育ちでしたから木登りなど梯子を使うまでも無いので
した。着物を乱すことになるので母に禁止を言い渡されていますが。男児が何事かをまた言い続けていました
が、ともかく全て無視することにして梯子をどんどん登っていきました。段も無くなったところで私の頭は丁
度木の枝が一点に集中するあたりに来たのでどの辺りに巣を置くかを決めるためにざっと周囲を見回すと、丁
度良く巣が収まりそうな場所が見つかりました。よく見ると小枝がいくつかあったので、おそらく巣は此処に
あったのでしょう。再び梯子を降りて男児の元まで戻りました。 
 
「では置いてきますので巣を貸して下さい」
「落とすんじゃありませんよ」
「気をつけます」  
 
巣を受け取ると振動に驚いた雛が鳴き声を大きくしました。お腹も空いているのでしょうが、それはどうしよ
うもありません。あとは母親が帰ってくることを祈るしか私には出来ないのです。両手でしっかりと持ち、梯
子をまた上っていきます。下で男児が「どうです?」と聞いてきたので順調だと返して巣を先程目をつけてい
た場所におきました。ぴいぴいと鳴く雛はこの先、どうなるのでしょうか。分かりません。考えたくなくなっ
たので、私は木を下りることにしました。しかし足元を確認するために後を振り返ったところで目に飛び込ん
できたものがありました。  
 
「昇陽・・・!」
  
朝日でした。それはとても美しく、私が登っている木の頂上を照らしていました。遠くに見える山の端は陽の
光りに輪郭を失って見えます。神々しいとは正にこのことを言うのでしょう。思わず下にいる男児に弾んだ声
で呼びかけていました。  
 
「あなた、登ってこられますか?素晴らしい眺めですよ!!」 
 
思いがけぬ言葉に躊躇うような表情をした男児でしたが、決心したかのように拳を握ると一段目の梯子に手を
掛けました。初めて梯子に登るのかもしれません。「下を見てはいけませんよ」と言ってその隙に私は木の枝
へ座るために梯子から太い枝へと居場所を移しました。登ってきた男児が座れる場所も確保します。少しして
何とか登ってきた男児が私の隣に腰を落ち着けました。お世辞にも今私達がいる気は低いとはいえない高さで
す。小さく恐怖に震えている男児の手でしたが、それも朝日を目にするとすぐに無くなっていました。 
 
「凄い・・・!」
「はい。此処からではいつもの朝日も大層違って見えますね」  
 
城下が小さく見えます。私はこの場所に来て日が浅いですが、こんなに素晴らしい昇陽をかつて故郷でも見た
ことがありませんでした。唯々美しいの一言です。城壁の近くに立つこの木は街を一望できる位置にあったと
いうわけでした。遠くに白鷺の声が聞こえるます。私と男児は時が経つのを忘れ暫し目の前の光景に見入った
ままでした。  
 
「きっと今まで、誰一人としてこの場所から見える景色について気づいていないはずです。ここは私達が見つ
けた秘密の場所に違いありません」  
 
いい大人が木登りをすることなどまずありえません。子供だから見つけることが出来たのです。ぴいぴい、と
背後で雛の鳴く声がして男児と二人で、雛を見やりました。  
 
「秘密の場所、ですか」
「はい、言わない限りは秘密です」 
  
男児が私を見ました。私も男児を見ました。男児の持つ金の髪は朝日に透けて輝いています。出会った時から
先程までのギスギスとした雰囲気はもうありませんでした。その事にどこか気恥ずかしくなりましたが、男児
は堂々たる風格を備えて私を見据えて言いました。男児はとても、眩しく見えます。  
 
「お前、名はなんと言うのです?」
「、と申します」
「では、お前は明日も此処に来れますか」
「はい、恐らく毎日」
  
そうですか、と返してきた男児は木の幹を掴んでいた片方の手を放すと、その手の小指を私に突き出してきま
した。それは約束を取り付ける場面でしか目にしないものです。  
 
「ならば」  
 
伸ばされた小指に私は自分の小指を絡めました。男児はまるで南蛮の御伽噺に出てくる天使というのに似て見
えました。ザビー教の方が見せてくれた天使の絵にそっくりです。陽にすける金の髪を持つところなど、特
に。男児に見蕩れていると、その男児が私の顔を真正面から見つめて言いました。「これは二人の秘密です。
約束しましょう、絶対に秘密ですよ」「何がですか」。そんな事を言っていると何時の間にか朝日が丁度二人
の真ん前に来てしまいました。横顔が照らされ熱くなります。男児の顔に影が掛かってしまいます。  

「大きくなっても、ずっと、」
 





思い出せない言葉があります。それは忘れべくして忘れたのだと人は言います。だから私もそれを無理に思い
出す必要は無いのだと思います。忘れていたところでそれでも間違いでは無いはずだからです。大人になると
は、子供のことを忘れる事です。だけどどうしても思い出した中で気になったことがあったとしたら、あの雛
は今、どうなったのでしょうか。それが気がかりです。お元気ですか、初恋の人。私は今年、結婚します。あ
の日昇陽を共にした彼では無い人と。


カンパネルラ、僕らは若かった