「あはは、ホント久しぶりだねーちゃん」
男は笑った。
いつもの軽薄そうな、それでいて底の知れぬ笑みを浮かべて。
思えば出会った頃から彼はそうだった。飄々として抜けているかのように見
えてその実、人の本質をしっかり見抜いているような抜け目無い男で。
彼のそういう所が、油断なら無いと私は最初から思っていた。
気づいていた、だけどそれを敢えて気のせいにいていた。何故って彼は疑う
にはあまりにも私に親切にしてくれたからだ。
だから彼に何も告げずに行方をくらませて一月が経つ今、何処で私の情報を
知り得たのかは分からないが、こんな形で彼の執着を見ることになるとは思
っておらず、私は驚いて立ち尽くした。
「俺様のいない間、寂しかった?・・・なーんて」
おどけて彼が笑う。その彼の背後に置かれた公園のオブジェがライトアップ
されていて、本来ならば絵になる一枚のはずなのだが、光りはしかし彼を知
る人にしか分からない底知れぬ不気味さを際立たせるだけの背景と化してい
た。
柔らかい微笑みに、背筋が冷たくなる。
彼の目は、笑っていなかったからだ。
歪んでいる。
私のことだ。人間的にどうしようもないと自覚があった。
生来の性格で、面倒くさがりで何事にも自発性の欠けていた私は高校を卒業
すると直に家を追い出された。
親と呼べる人間は私の社会性の無さを見抜いていたから、自立を促そうと強
攻策に出たのかもしれないが、本当のところは愛人と暮らすのに邪魔になっ
た娘を体よく追い出すのが目的だった。
父親の都合で路頭に迷う羽目となった私だったが、それでも職を探そうとは
全く思わなかった。それすらも面倒くさいと億劫に思ったからだ。
それで仕方なく、暫くの間は友達の家を渡り歩いて泊めてもらう日々が続い
ていたのだが、ある日の夜に一人で街をぶらついていたら男に話しかけられ
た。
それは一緒に食事をしないかという誘いだった。
勿論援助交際や、そうでなくても何かしら裏があることは分かっていたのだ
が、とにかく空腹に耐えかねていた私はそれに飛びついたのだ。
で、今まで入った事の無いような高いレストランで食事をした後、案の定お
礼代わりにといって無理矢理肩を抱かれて安ホテルに入る事になった。
それでいよいよ男がシャワーを浴びて、出てくるのをベッドに座って待って
いるときになって、最低な私は閃いたのだ。
このまま金だけを持って、逃げてしまおうと。
私のその最低な閃きは、しかしいざ実行してみるといとも容易く成功してし
まったものだから、味を占めた私はこれ以降ナンパで引っ掛けた金持ちそう
な男と付き合うことで生活を成り立たせるようになった。
貢がせるだけ貢がせて、相手が本気になって体を求めてくる様になった頃に
捨てるか別れるかする。
後腐れが無くて、自分自身は汚れない。
そんな関係は一日で終わる事もあれば最高で三ヶ月続く事もあった。いずれ
も性交渉はしていないが、なまじ顔立ちには恵まれたばかりに次の寝床に事
欠く事は無かった。
だからそういう意味では、今回捕まえた男も最高だった。
「私、佐助のこと好きだよ」
猿飛佐助はとても有能だった。
彼は御曹司のお目付け役とでも言うのか、あまり学の無い私には良く分から
ない世界なのだが、ともかくそれなりに社会的立場のある人間だった。
そんな佐助と出会ったのは半年前の事で、これまで出会った男達の中で群を
抜いて私に厚待遇の生活をさせてくれた。
男と別れて次の当てを探し、真夜中の公園のベンチで休んでいる時に話しか
けられたのが最初だった。「何してるの」「家出中です」そんな感じ。
彼は行く場所が無いならおいでと、私の手を引いて優しく微笑んでくれたの
だ。私の恣意にも気づかずに。
断る理由は無かった。それから今日まで、半年の月日が流れた。彼は未だに
私の体を求めない。だから続いていた。
「ちゃん、俺様今日仕事遅くなりそうだから、これ食べといてね」
「分かった。いってらー」
「うん、行ってきます」
頭をぽんぽんと二回叩いて、いつもの様に微笑んだ佐助は私を家に残して会
社に向かった。素性の知れない女に彼は、合鍵まで渡している。
相当なお人よしだった。
今までの男は外出する時に必ず私にも出るよう言って警戒はしていたという
のに、佐助はむしろ私が家から出るのを嫌うようだった。
買い物に行きたいと言えば欲しい物は買ってきてあげるから家にいなさいと
言い、どこそこのケーキが食べたいと言えばお土産に買ってくるからそれま
で我慢して家にいなさいと言った。
一種、軟禁ともいえる束縛だったが元来が面倒くさがりで出不精な私は特別
にそれを煩わしく思うことも無く、素直に従っていた。
しかしどうやらそれも今日で終わりだった。
最近知ったのだが、佐助はじきに転勤となるらしい。彼の従う御曹司とやら
が遠方のお偉いさんの下に住まいを移すらしく、それに付いて行く事になる
のだと。
私としては寝床と食事の保障をしてくれる限り彼に付いて行きたい所ではあ
ったのだが、周囲の環境が変わるとなればそうは行かない。
捨てられたら、どうするのだ。良く知らぬ街で再び男の家をはしごする生活
が出来るのか、その保障も無い。
加えて佐助は大層私が気に入っているみたいだけれど、リスクを負ってまで
付いて行くメリットは少なかったから、自然、私のこれからは決まったのだ
った。
それでその日、会社に向かった佐助を見送って一時間後に、荷物を纏め終え
た私は半年間世話になった住みなれた家を出た。
潮時だった。
一ヶ月前の事だ。
今日、水族館に行った。
ナンパした男が丁度彼女に振られたところだったらしく、あまった水族館の
チケットをどうすべきかで決断をあぐねていたから、それなら私とどうだと
傷心の男に優しく言えばかくも見事に喜んだものだから、これならば今夜の
寝床は大丈夫そうだとその男に狙いを定めたのだった。
水族館自体は、本当に久しぶりに行った。
横に海があるせいか、触れ合いコーナーや珍しい生き物なども多く展示して
いてそれなりに楽しんで時間を潰す事が出来たのだが、グッズの販売店に来
たところで、あろうことか男を見失ってしまった。
色々と探し回ったのだが、遂に見つけることが出来なかったのでおそらく逃
げたのだろうと推察が行った。
それでその男の事はとりあえず諦めて目に付いたペンギンの泳ぐトンネルに
足を踏み入れた時のことだった。
オスのペンギンは生涯、一匹の決まったメスとだけ子を持つのだと。
側にいた子供達に説明する係員の声が耳に入った。
子育てを終えて荒波を超えてきたメスを再度、浜辺で待つオスは必ず見つけ
出してまた愛を育むだとかなんだとか。
それは私にしてみれば全く持って信用のならない話だった。
ペンギンですらそうだというのに、私の父親と来たら母を捨てて愛人まで作
ってしまう始末だ。そんな父親を見て育ったからか、私は基本的に男はそう
いう生き物なのだと、随分小さい頃に納得してしまったのを思い出した。
嘆かわしい事だ。
その娘もこうして人の好意を餌にして生きているのだから。
「ちゃんさ、俺様から逃げ切れると本気で思ったわけ?」
佐助の目は真剣だった。
さっきまでのおどけた調子は止めたらしい、一緒に住んでいた頃には見るこ
との無かった真面目な表情に一瞬見蕩れたのだが、すぐに元に戻した。
そういえば。
私が声をかける相手は決まって同い年か年上で、優しくて男気に溢れた人だ
った。可愛がって貰えそうだと本能が働いたのかもしれない。
佐助のことは、そうして出会った中でも一等お気に入りで良い金づるだと思
っていた。
気に入っていた。その優しさを。だからなるべく傷付けない様にして別れよ
うと私にしては引き際を見定めていたのに。そうしてその通りになったとい
うのに、彼自ら美しい墓を掘り起こしに来るなんて。馬鹿な男だと思った。
「そもそもアンタなんか遊びだし、愛してもいなかった」
「黙れ」
強い言葉と共に、佐助の顔から表情が消えた。
そして私へと一歩、また一歩と歩み寄ってきた。
少しそれに怖くなるが、此処で怯めば思う壺だと言い聞かせて毅然とした態
度でそれを迎える。
何かしてくるようであれば最悪、悲鳴を上げて彼を悪漢に仕立て上げれば良
い。2人の間の距離が2メートル程になった所で、佐助が足を止めた。
大丈夫だ、佐助は手を上げないし声を荒げる事も滅多に無い男だ。
そう、思った。
「アンタの都合に付き合ってやったんだ、今度は俺の好きにさせてもら
うぜ」
その瞬間、腹にもの凄い衝撃を受けて私は意識を失った。まさか、そんな。
それは佐助が私の腹に拳を入れたからで、まさか女に手を上げるとは露も思
っていなかった私は直後の衝撃に目を見開いた。
そして見えたのは、佐助の無慈悲なまでの無表情だった。
「逃げられると思うなよ、」
支えられずに崩れ落ちる私の体を抱きとめる逞しい腕があった。
しかしそうする事を望まぬ私からすれば、それは檻でしかなかったのだが
ともかく自分はとんだ男に声をかけてしまったと逃れられない運命に恐怖を
覚えて意識を手放した。
とんだ悪夢だった。
「おーい、ちゃーん!」
あ、起きた?と言う声がして瞼を開けた。
彼は気配や小さな動きに敏感だ。私が目を開けずとも起きている事を言い当
てて見せるし、お腹が空いている事だって分かってしまう。
隠し事は出来ないなと、この家に上がりこんだ当初から佐助に思っていた。
と、そこで何か違和感を覚えた。
何で私は此処にいるんだろうか。覚醒した頭に従って上半身を起こすと体か
らタオルケットが落ちた。
それを気にせず周囲を見渡すと間違いなく私がいるのは佐助の家で、採光の
良いリビングのソファーに2人で身を横たえていた。
横にいる佐助が笑って、私の頭を撫でる。
「んもー、ちゃんったら寝ぼけてんの?
ゲーム中に急に寝ちゃうんだからさー。倒れたのかと思って俺様びっくり
しちゃったんだよ。ほら」
言われたとおりに見ると、机を挟んでソファーの真ん前に置かれたテレビの
画面には大きくゲームオーバーと映っていた。
成る程、急に眠ってしまったせいで敵に負けたのかと理解したが、ふと何気
なく目に付いたテレビ台の下に置かれた時計は、全く覚えの無い日にちを表
示していた。
佐助を見ればにっこりと、それはもう完璧な笑顔とかち合う。
夢なのだろうか、何かがおかしい気がするが頭がぼんやりとしているせいで
あまり思考が明瞭ではない。
寝乱れたぼさぼさの髪の毛を梳かそうと手を入れるとやけに絡み付いてきて
絡まった。艶を失ったかのように指が全く通らない。
さっきから一体何なのかと思い毛先を見れば微かに、髪から潮の香りがする
ことに気がついて顔を横に捻れば、佐助と目が合った。
どうしたの?
photo by NIGHT Windows 〜東京の夜景
ごめん、これホラーだね。(笑