私が持つ物の中で一番大切にしていたその腕時計を床に思いっきり叩きつければ、それが引き
金となった。



これ以上に大切なものはここには無い。タンスにしまってあった服や本やアクセサリー、季節
違いの小物まで全て、全て、引っ張り出して引っ張り出して引っ張り出して両の掌でそれらを
原型を留め得ないほどに壊す。
誕生日祝いにお母さんがくれたネックレス。手で連なる玉を引きちぎって壊せば床に派手に飛
び散ってベッドの下へと転がっていった。ざまあみろ。
それから気に入っていた服も全部、ズボンは股からワンピースは襟もとから引き裂いて唯の布
切れになるまでぐちゃにぐちゃにした。袖を繋ぎとめる脇の糸が嫌な音を立てるのを一思いに
引っ張って終わらせる。これもざまあみろ。
百回はリピートをかけた大好きな曲が入ったCDも床に思いっきり叩きつければそれであっけな
く終わりを迎えた。そうしておおよそ机の上にある物もタンスの中もその上に置く物もあらか
た壊してしまえば、この部屋において無事なものは我が身一つだけになった。四散した物で埋
め尽くされた床はもう見えない。それでいい。それがいい。
頭が冷静になる前に私はこの世界を飛び出さなくてはいけない。私はここにいちゃいけない。
私の頭を占めるのはいつか聞いた懐かしい童謡だけだ。さあ行こう。荷物を持たずに何も持た
ずに何にも縛られないうちに。ヘンゼルとグレーテルは森から抜け出てはいけないし、青い鳥
は籠の中に初めからいやしないのだ。朝日が昇ってしまう前に私はあの金星を目指してどこま
でもどこまでも行く。歌詞にもそうあった様に、輝かしい旅の幕開けだ。
さようなら。さようなら。さようなら。さようなら。さようなら。
私がかつて、一度は愛したものたち全てに別れを告げて部屋を後にすれば、カーテンという遮
りを失った部屋に差し込む青白い月明かりが別れを仄めかした。今宵、私は死ぬ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




 
 
 
 
 
 
特に意味は無い。
 

明確に死ぬ理由も、死に場所に横浜を選んだことも。
ただここは昔、開国をした場所だった。いいや、浦賀であって決して今私がいるところではな
いことくらいは分かっている。だけど、それが近代日本の始まりであるならそれに適応出来な
い私という人間を終わらせるために原点へと戻るのも良いんじゃないだろうかと思った。
その昔、幕末の志士達が愛した日本を守ろうと揺ぎ無い意志を持って望んだ遥かな高みへは、
近づいたのだろうか。まだ知らぬ海の向こうを、どんな思いで見つめ、国が鉛の如く暗い船を
迎えた話を聞いたのか。さてそれが絶望であったとしても、彼らの様に信念を持つことこそが
大切なのだと後世に紹介されているのだ。手本とされる生き方は、しかしそれは私には全く持
って相応しくない生き方であって、私はどこまでも愚かな戦後の憂鬱が生み出した子供の象徴
だった。
自我の薄い自立心の無い私という人間は、夢も希望も無く今日この瞬間までを生きてきた。生
まれた意味?知らない。生きる理由?特に無い。だから死ぬなどと、簡単にのたまうのだろ
う。何もかもが不毛で、取り返しがつかないと今更その事に気づいたのだ。ああ、虚しい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
凪いだ海の黒に身を投げれば、救われるとでも思ったのかもしれない。
 
 
 
 
 

柵を乗り越え人目の無い海に飛び込めば、口の端から忍び込んだ水が容赦なく腹を満たした。
飛び込んだ海はあまりにも冷たくて、私の肺は生命の息吹を絶やすまいと懸命に苦しみを訴え
る。それはスパークを起こす私の頭を痛めつけ、本能という無意識の強烈な自我を呼び覚まし
た。こんな時にだけ生きたい、と。しかしもう無理なのだ。
今回ばかりは一度として信念を貫き通すことの無かった私がやってのければならないことのよ
うに思えた。だから戻れない様にして迄ここにやって来たというのに。
咳をすることも出来ず、苦しさからさらに空気を求めて口を開ければ、そこからは水が浸入す
る。生きるのも死ぬのも苦しくて、何もかもが苦しいと思った。心が割れそうだった。海に抱
かれたいなどと思ったことに涙がこみ上げる。優しくないのはいつだって世界だ。
いよいよ思考がぼんやりとしてきて、肺に水が入る頃だろうかとブラックアウトと呼ばれる瞬
間を待てば、ゆらゆらと頭上に光が射した。夜なのに眩しい。絶望の深淵にいる私が思う事
は、それに対してもうやめてくれという心からの願いだった。苦しい。生きるのが、毎日が、
昨日が、今が、明日が、自分が。
見えない。何もかもが不安定すぎて心許ないから、死ぬしかなかったのだ。なのに生きたいな
んて、何を今更あさましい。だけど私の手は本能に従って光から伸びる腕にしがみ付くように
伸ばされていた。どこまで中途半端なのか。もう、嫌だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
酷い咳をして水という水を吐き出してぐちゃぐちゃになった口から出るのは唾液なのか何なの
かもう分からなかった。濡れて肌に張り付く衣服が夜の外気に冷やされて体温を奪う。
乱れて絡まった髪も指を通さない。コンクリートに這い蹲る自分の惨めな姿に、どこまでも中
途半端に自分が生き残ったことが分かってしまった。自覚できたその現実に目の前で同じよう
に咳をする彼の目も憚らずに声を上げて泣く。わんわんと、まるで子供のように涙が溢れて止
まらなかった。
海水の味がするのは涙のせいなのか、先程まで海にいてそれを直に喉に通したせいなのか。
もう何だって良いけれど、とにかく私は生き残ってしまったのだ。嗚咽でしゃくり上げながら
遠くに見えるビル群の影を目にして涙に霞んで遠ざかるのが更に悲しく思えた頃、正面から不
意に抱きしめられた。それはひどく温かな人肌だった。
 
 
 

「殿」
 
 
 

それまで黙っていた彼は私をしっかりと胸に抱きかかえて口を開いた。
水中で見えた時にどうして此処にいるのかと思った彼。身につけている真っ赤なシャツは今や
水を吸い込んでずぶ濡れの状態で赤黒く変わってしまっていたけれど、この夜の薄闇の中でも
はっきりとした色合いを保って灯りのように見えた。
幸村、
呟く自分の声は震えていた。ついでに全身も。ようやく気づいた自分の体温状態にいっそこの
まま低体温症にでもなればいいと考えたら、知らず自嘲の笑みが零れた。だけど私を抱く幸村
の腕の力はその呼び声に答えるかのように強まって、顔は厚い胸板に押し付けられてしまっ
た。
 
 
 
「某は・・・!本当に心臓が止まるかと・・・・・・!!!!!」
 
 
 
どくどくと、耳に五月蝿いほどに聞こえるのは幸村の心臓の音。
こんなに力強い音なのかと生命のしぶとさに驚くと同時に、それは幸村だからなのだと思っ
た。だってどうやったって私の鼓動はこんなに大きく脈打ちはしない。あながち幸村の心臓が
止まってしまうというのも有り得ない話ではないのだと思った。
暖かさに包まれたせいか、生理現象で安心したような溜息が口から漏れた。
 
 
 

「電話の時に、何故某に相談してくださらなかったのでござるか」
 
 
 

知らなかった。
自分が無意識に彼に電話をかけていたなんて。全く覚えていない。何時の事だったのかも分か
らない自分の記憶に、私はどういうわけか危うさを覚えるよりも納得がいってしまった。つま
り、そういうわけだったのだ。
理由はどうあれ自分には初めから死ぬつもりなど無かったのだ。
助けに来る人をきちんと予め用意しておいたから今回の事が出来た。でなければ私の様な無気
力で受動的な人間が死ぬなどと面倒臭いことを実行に移せるわけが無い。全て、目的は、助け
て欲しいだけだったのだ。
しかし彼の手を煩わせるまでも無い程に下らない悩みは、言えるわけもなかったから。
だから。そこまで考えて一度息を吸うと嗚咽の残りか、喉が震えた。体は温かいけれどさっき
から心は冷めていくばかりで、涙も、涸れてしまった。
 
 
 
「殿」
 
 
 
力の篭った声が耳元でする。
彼は高潔で、どこまでも真っ直ぐで、そして常に熱い男だった。私はそんな彼が出会った当初
から好きではなかった。それがどういう理由でそう思ったのかは分からないけれど、唯、とに
かく自分に合わないと嫌っていたのだ。
彼はいつだって眩しい。
ただ傍にいる彼が眩しくて眩しくて眩しくて眩しくて仕方が無かったのだ。それだけだった。
嫌味な程に私は常に彼に近い距離にいた。真っ直ぐ、直向に努力を重ねるその姿を、常にすぐ
横で見させられてきたという訳だ。嫌でも。そんな彼と正反対の性格をした私にはその勇姿が
眩しくて、そして同じようにはなれないことを憎く思った。だけど、それを怨むほどに卑屈に
歪でいくのは私の心だった。
彼は、志士だ。真っ赤に燃える、勇猛な獅子。日本の未来を築いていくであろう明日への輝き
に満ちた瞳は、私には傍にいることすら辛くさせた。だけど私はそれであっても尚、彼が、幸
村が好きだったのだ。
 
 
 
 
 
 
 
「某には、どうしても殿が必要なのだ。永遠に大切にいたします故、
 どうかこの幸村と生涯を共にすると誓ってくだされ!!」
 
 
 
 
 
 
 

滑稽な図だった。
志士が望むのが、死を望んでその本懐を成し遂げられなかった出戻り女とはお笑い種だ。遠く
の、朝霞に霞む観覧車の影が果てしなく寂しくて、ロマンチックで、そして憂鬱だった。
白みがかった空の果てに明かりが射すのを背景にして微笑んだ彼は、それは満足そうな顔をし
てもう一度私を抱きしめなおした。びしょ濡れの二人を置いて、今日も陽は昇る。
それは日本の、美しい夜明けだった。