「じゃあ行ってくるよ」 「うん、いってらっしゃい」 バタン、と扉が閉まったのを確認して溜息を吐く。 それから一分、息を吸って叫んだ。 「そりゃあ半兵衛が忙しいのは分かっているともさ!」 今日は何を隠そう一年に一度の結婚記念日。 半兵衛は自分の夫ながら、どこをとっても優秀な人間だ。仕事ができるから 重要な取引先の相手は半兵衛にと社長が指名するし、容姿の美しさもあって 会社で重宝、というか半兵衛がいなきゃこの会社つぶれてるよね(笑)と言 われているほどだ。そんな会社で引っ張りだこの忙しい半兵衛を困らせて嫌 われたくないからと、休日だって誕生日にだってわがままを言わないように してきた。ただ、年に一度の結婚記念日くらいは。そう思っていた、のに。 「また休日出勤か・・・」 リビングの床にセイウチのように腹ばいになって転がる。今の私、滑稽だろ うな。ああー。仕方ないけどさー。そりゃ仕方ないんだけどさー。有給休暇 って何?って感じだよねー。もうさ、労働基準法って何??家庭って何だっ け??妻って何だったっけ?家庭も顧みずに働くのって本末転倒じゃないの ?一体半兵衛は仕事と私どっちが・・・、いや。この台詞だけは言ってはい けない。これいったら最後だと思ってるから、私は。絶対離婚になるし自分 が言われたらやっぱりウザイって思うし。どれくらいそうしていただろうか、 気づいたら時計の針はおやつの時間を過ぎていた。 「ああ、うん。そうだよ。別に一人で祝ってもいいじゃん」 いいじゃない。一人寂しく祝っても。私が半兵衛の分まで祝うよ。よし、そ うと決まったらたまには飲もう!腕によりをかけてキッチンタイムだ!!も う半兵衛は会社で頑張ればいいさ!何も今日無理して祝わなくても別の日に 補えばいいんだよ。そうそう。その手がある。さあまずはケーキからとりか かるぞ。卵を割ってボールに入れる。バターと砂糖はこっちのボールに入れ といて・・・。 「半兵衛が浮気をするのに比べたら結婚記念日を一人で過ごす方がはるかに  ましなことだと思うんだよね」 分かってるけど。納得できない私の傲慢さが醜い・・・! 「結婚した頃ってどんな感じだったっけ・・・」 記憶を手繰ってみると思い出すのは今よりも半兵衛が頻繁に休暇をとって私と 出かけていた、ということ。土曜日は家でごろごろして、日曜日の午前中には ショッピング。この服はに似合いそう。だなんて言ってくれて。 それから夕方ごろに家に帰ると、二人でのんびりご飯を食べる。私が料理をし ているとたまに半兵衛は後ろから抱き付いてきて首もとに顔をうずめてきたり する。髪の毛があたってくすぐったいんだよね。私が犬みたいだって言って笑 うと半兵衛はそれはの方だよ、って言って私の頭をなでる。 このカウンターキッチンから見える夕日は大体いつもその時間帯に見ていた。 今は、どうだろう。 半兵衛とショッピングに行ったのはいつが最後だったっけ。 日曜日には何をしたっけ。一緒に夕飯を食べたとき、料理をしていたとき半兵 衛はどんな顔をしていたっけ。調子は。駄目だ、思い出せない。あの頃と違っ て圧倒的に半兵衛との時間が少ないせいだ。どうして今私はキッチンに一人で いるんだろう。私の目の前にはあの頃と何も変わらずに夕日が沈んでいる最中 だっていうのに。なんだかあの沈んでいく夕日は今後の私と半兵衛を暗示して いるみたいだ。卵を混ぜている手が止まって涙があふれてくる。こんな感傷的 な気分になるのは全部夕日のせいだ。そうに決まってる。半兵衛が私を一人に するせいなんかでは決して無い。私のために働いてきてくれているのに半兵衛 のせいになんかできるものか。二人の愛が薄れているわけでもない。 涙を袖で乱暴にこすってネガティブ思考を強制終了させてケーキ作りを再開し ようと気合を入れなおした直後に、家の電話が鳴った。 「もしもし、竹中です」 「僕も竹中だよ、」 半兵衛だった。 電話の奥で半兵衛が私をからかうときのようにふふ、と笑う声がする。 会社からだろうか、珍しい。 「ごめん、名前をよく確認しないでとっちゃったの。  それより半兵衛どうしたの?何かあった?」 「ああ、うん。」 半兵衛の声のほかにも音が聞こえる、今半兵衛は外にいるみたいだった。 ちょっと聞き取りづらいと思って受話器をしっかり持ち直す。 「、今から外に出ておいで」 「え?今から・・・?」 「うん、仕事は今日はもう切り上げた。行きたいところがあるんだ」 行きたいところ。 もしかしなくても半兵衛は今日の結婚記念日のために仕事を切り上げてくれた んだろうか。なにそれ、うれしすぎる。さっきまで私が思ってたことを裏切っ てくれるような半兵衛の言葉に涙がこみ上げてきそうになる。 ひどく懐かしい、あの日曜日の感覚が蘇ってきて、目の前の夕日に思わず涙が こぼれた。 「・・・半兵衛、どこに行くか聞いてもいい?」 黙ってついていきたいのは山々だけれど、もうすでに感極まってる私はせっか く半兵衛が用意してくれているサプライズに対しても空気をが読めないほどに なっている。私の口をすべって出た言葉に電話の向こうからはやれやれ、と半 兵衛の溜息をつく声が返ってきた。 『こういうときは黙ってついてくるんだよ』 なんて私をたしなめる彼の声がうれしそうなのは、なぜ。 「と住む、新しい家を買ったんだ」 電話口でみっともなく泣き始めた私に半兵衛の愛してるの声が何回も聞こえた 私の旦那様! いつだって私は愛されていた。