私が奉公に出されたのは九つの春のこと。 度重なる戦で田畑だけでは生計を立てられなくなり、遠い知人の紹介でこのお城へとやってきた。 城仕えと言えば聞こえはいいけれど、所詮身分を持たない小娘だ。押し付けられる仕事は面倒かつ厄介なものが多く、加えて先輩女中からの虐めだってあった。頼れる人なんて誰も居ない、正に四面楚歌の状態に何度夜逃げしようかと思ったことか。 でもそんなことをすればしわ寄せが行くのは故郷で待つ家族達だ。向こうは向こうで苦労していることを幼心に理解していたから、唇を噛んで必死に耐えた。それでも、どうしても耐え切れなくなると、城の外れにある橡の木で泣いた。 故郷の村には中央に橡の木があって、村の守り神が宿っているんだよとお年寄り達から聞いていた。注連縄が巻かれた太い幹は、守り神と呼ぶに相応しい尊大さを持っていて、その幹に寄り添うだけでどんな不安も消えて心安らかになれた。だからこの城に来て橡の木を見つけたときは、とても嬉しかった。 「誰だ、そこにいるのは」 その日も私は橡の木の下で泣いていた。木の幹に身を隠してしゃがみこんでいると、唐突に響いた声。日はとっくに沈み、誰もが屋敷や部屋へと帰っているはずの頃。顔を上げるが声の主は居ない。きっと幹の向こう側にいるのだろう。恐る恐る顔を覗かせれば、そこにいたのは私より2つ3つ上くらいの男の子だった。 城主である秀吉様は、将来立派な武人になると思った子供を連れ帰って育てている。きっと彼もその一人なのだろう。彼は私を見て鋭い瞳を見開いてみせた。大方曲者が忍び込んだと思ったところ、顔を出したのが瞼を泣き腫らした小娘で驚いたのだろう。どこか間の抜けた面持ちに、私は袖でごしごしと顔を拭うと「お見苦しいところお見せしました」と呟いた。 「何だ貴様は。何故こんなところで泣いている?」 「私は下働きです」 顔を見られるのが恥ずかしくて俯いたまま答えた。泣いている理由を言わなかったのは、ありすぎて言い切れないというのもあったし、言ったところで彼は理解しないだろうと思ったからだ。私とは違う、綺麗な袴を纏った彼は、私とは住む世界が違うのだと思い知らされる。ただの下働きとは違う。城主様に才能を見込まれて連れ帰られた子供なのだ。卑屈になった思考は、ようやく止まりかけた涙を煽った。じわじわと滲んでいく視界が悔しくて顔を顰めれば、食いしばった歯から嗚咽が漏れる。 「泣くな」 「っ……ぅ、」 「泣くな。秀吉様にお仕えする身ならば弱さなど見せるな!!」 鋭く言って、男の子は私の腕を掴むと強く揺すった。そんなことを言われても、流れる涙は止まらない。そもそも、どうしてこんなことを言われなきゃいけないのだろうと苛立った。私は好きで秀吉様に仕えているわけじゃない。家族のために仕方なくここにいるんだ。出来ることなら今すぐにだって帰りたい。こんな場所、もういたくない。 思えば思うほど涙は止まらず、泣きじゃくる私に彼は何度も「泣くなと言っている!!」と声を荒げた。 結局見回りに来た門兵に見つかるまで、私たちはそんなやり取りを続けていた。 *** あれから数年経ったが、私は未だに下働きのままだった。とは言え、いつまでも苛められて泣き寝入りしている子供ではない。虐めは多少続いていても、人が入れ替わることによって状況は改善されていった。私の下に入った子達からは先輩としてそれなりに慕われている。相変わらず仕事は面倒かつ厄介だけれど、それを重荷に感じない程度には仕事も出来るようになった。 そんな私は、今でも時折橡の木まで足を運ぶ。泣きに行くためじゃない。 「また貴様か」 幹にもたれかかって空を見上げていると、低い声が響いた。ひょいと顔を向ければ、そこに佇むのは銀の髪をした青年。 あの日私に「泣くな」と叱咤した彼は、どこか苦々しい面持ちで私を見据える。 当時佐吉という名であった彼は数年前に元服し、三成と名乗っている。智でも武でも功績を挙げて、今では秀吉様の左腕とさえ呼ばれる彼に、私は「どうも」と小さく零した。 あの日から、こうして橡の木の元に立っていると彼によく出くわすようになった。初めの頃は泣いてばかりの私に彼は「泣くな」と飽きもせず叱咤していたが、私が泣かなくなるにつれて彼も口を開かなくなった。佐吉と呼ばれていた頃は、唯一の同年代とあって私はよく話しかけていたけれど、元服して以来はどう接していいか分からず、他愛もない会話すらしなくなった。 お互い相手に背を向けるように、橡の木を挟んで幹にもたれかかる。 「また泣きに来たか」 「まさか。そんな繊細さ、とっくに失くしましたよ」 笑みを含んだ声で言えば、癇に障ったのか彼は「可愛げもない」と吐き捨てた。可愛げがあったら、またあの日のように「泣くな」と慰めてくれるのだろうか。思って、零れたのは自嘲的な笑みだった。 あの頃は、もっと近くに彼を感じていた。けれどいつしか、手の届かないところへ彼は行ってしまった。 武勲をたてて、出世街道をひた走る彼。かたや私は、いつまで経っても下働きの下女で。 身分のない私には、到底そこから抜け出す手立てなどない。彼が上へ上へと登るほど、私たちの距離は開いていく。 分かりきっていたはずのことが、何故か、今になって胸を痛める。 私たちの間にある沈黙を和ますように、橡は風に揺れてさわさわと心地よい音を立てていた。 どれくらいそうしていただろう。彼は幹から背を起こすと、何も言わずに踵を返した。遠ざかっていく後姿に、私は俯いた。 いつも彼は私より後にやってきて、そして先にここを後にする。その度に私は呼びとめようとするけれど、彼を何て呼んでいいか分からずにただ見送るだけだ。 佐吉。慣れ親しんだその名はもう呼べない。三成と、呼べばいいのは分かってる。でも身分の無い私は彼を三成様と呼ばなければならない。それが、どうしても出来なかった。 *** その日も私は橡の木まで来ていた。日が昇っている間は仕事があるから、ここに来るのはいつだって日が沈んでからだ。夏が近づいて蛙の鳴き声や虫の音が騒がしい。はぁ、と息をついて幹にもたれかかり、そのままずるずると座り込んだ。 今日、女中頭に縁談を薦められた。相手は豊臣に仕える武士の一人だ。無論将のように名のある人ではないが、この先出世も期待できるだろうと言われているとか。話を持ち掛けられた時、驚きはしなかった。ついに私にもこの時がきたか、と思っただけ。城に仕えて数年。今まで私の先輩女中達も、こうして年頃になると縁談を薦められて仕事を辞めていった。長年その姿を見ていたから、今更自分がその番になったからって色めくほど純ではない。 ただ、どうしようもなく、虚しかった。 ジャリ、と砂を踏みしめる音がして、顔を上げれば彼が居た。どうして彼はこうも私がいる時に限ってここに来るのだろうか。もしかしたら彼がここに来るのは日課で、偶々私が鉢合わせているだけかもしれないけれど。 彼は私を見て、いつものように厭味を告げることはなかった。何事もなかったかのように歩み寄って、幹に背を預ける。ただ、その預けた場所が、いつもと違った。普段ならば私の真後ろあたりに行くはずなのに、何故か今日に限って私の隣だった。そして私に合わせるように、腰を下ろす。肩に触れた存在に、体の奥で何かがざわめいた気がした。 「……何かあったんですか?」 思わぬ行動に、直感的に何かあったのだと思った。控えめに問えば、彼は私の視線から逃れるように顔を背けて「貴様には関係ない」と吐き捨てる。 そう言われてしまっては、これ以上聞くことは出来なくて、私は「そうですか」と呟いて膝を抱えた。 すると、彼は「貴様こそどうした」と問った。もう口を開かないだろうと思っていたから、その問いにとても驚いた。昼間、縁談を持ちかけられたときとは比べ物にならないほどに。 もし、私がお嫁に行くと知ったなら、彼はどんな顔をするだろうか。この橡を独り占めできると喜ぶだろうか。いつものように、厭味を言うだろうか。 「貴方には関係ありませんよ」 そう呟いた声は、自分でも驚くほどに優しい声だった。どうしてこんな声が出たのか、自分でも分からない。ようやくこっちを向いた彼の眼にもまた、驚きが浮かんでいた。ああ、まるで出逢ったあの日に戻ったかのよう。どこか間の抜けた面持ちの彼に微笑めば、彼は苦々しく顔を顰めて、俯いた。 「貴様は、……」 言いかけて、口を噤む。一体何を言ってくれるのだろうかと期待して耳を傾ければ、彼は何も言わずに立ち上がった。つられて見上げれば、拳を結ぶ手が震えていた。 「――……」 引きとめようと、伸ばした手は空を掻く。開いた口は言葉を発することも出来ず、月明かりの中遠ざかる背中を見送った。 走り去っていく彼に、今になって分かったことが一つ。 彼もまた、ここに泣きにきていたのだと。 あの日私に言った言葉は、きっと彼自身に向けられた言葉だったのだと。 どうして今、気付いてしまったのだろう。 *** 「縁談?」 翌日、炊き屋の裏の井戸でいつものように野菜を洗っていたら、一つ年上の先輩女中が「らしいのよ」と声を潜めて教えてくれた。その内容は、彼に縁談の話が上がったというもので。 「何でも秀吉様直々に縁組されたそうよ。相手はさる大名のお姫様だって。まぁ左腕とも呼ばれる三成様なら当然ね」 「そ、それ本当ですか!? いつ!?」 「本当よ。奥の女中から聞いたんだもの。いつになるかは分からないけど、まぁ秋口くらいじゃないかしら」 そう言って彼女は楽しげに笑った。対する私は、手に持っていた胡瓜が盥に落ちたことも気付かずに呆然と目を見開いていた。 別に、驚くようなことじゃない。私にだって縁談の話が持ちあがるくらいだもの。彼ほどの人間ならば、今までなかったのがおかしい。 「あんたまさか三成様をお慕いしてたの?」と問う先輩に、私は「まさか」と笑って見せた。上手く笑えずきっと滑稽な顔をしていただろう。先輩の面持ちがみるみる怪訝に染まっていった。 私たちの仲を知る人はいない。せいぜい門兵くらいだ。公になったところで、たまたま橡の木の下で出くわしているだけ。ただ、それだけ。何もあるわけがない。あっちゃいけない。 もしかして、彼も昨夜唐突な縁談に狼狽して橡の木まできていたのだろうか。私があの時縁談を薦められたと言ったならば、「私もだ」と答えたかもしれない。 言わなくて、よかった。彼の口からそんな言葉聞きたくもない。 彼の縁談の話は、私自身の縁談よりも私を憂鬱にさせた。どうして他人の事でこんなにも思い悩まなきゃいけないのか、と八つ当たりするように茄子を洗う。ずっと盥の前にしゃがんでいたから、そろそろ腰が痛くなってきた。ようやく洗い終えた茄子を笊に盛って、井戸を後にする。早く炊き屋に持っていかないと、またどやされるなとため息を漏らした。 嫁げば上の女中からの下らない説教や虐めから開放されるだろうか。それなら案外悪いものでもない。ただ、不満に思うのは相手の男。顔さえ見たこともない相手と、果たして上手くやれるのだろうか。どうせ嫁ぐなら、もっと気心の知れた人がいい。例えば、例えば……。脳裏をよぎった横顔に、それをかき消すよう首を横に振った。 この時間炊き屋はさながら戦場だ。勝手口から入った途端、あの大嫌いな先輩女中に「遅い!!」と怒鳴られるんだろう。そんなことを思いながら入れば、そこはまるで水を打ったように静まり返っていた。誰も彼もが手を止めて、ある場所を凝視している。一体何事かとキョロキョロしていたら、あの先輩女中が「ちょっとアンタ、一体何やったんだい!?」と声を潜めて非難した。何やったって、私何かしましたか? そう問おうとした、そのときだ。 「!!」 聞き慣れた声が、私を呼んだ。反射的に声がした方――皆が凝視していた入り口へ目をやると、そこには彼が立っていた。顔には激しい怒りを滲ませて、まるで射抜くような視線で私を見据えている。あまりの剣幕に私は答えることもできずに硬直してしまった。彼は私の元まで真っ直ぐに向かってくると、唐突に腕を掴んで歩き出した。笊から茄子が転がり落ちるのを見て「あ」と声を上げたが、先輩女中が「茄子なんかどうでもいいからさっさとお行き!!」と目で語ってたので、ついでに笊も放り投げて私は彼に引かれるがまま歩いた。 そうして辿り着いたのは、やはりあの橡の木の下だった。 ここでようやく振り返った彼は、やはり怒っているようで。綺麗な顔を顰めて、睨みつけるように私を見る。そんな顔されるほどのことを私はしただろうかと記憶を辿るが、それらしきものは見当たらない。 「私は!」 叫ぶように、怒鳴るように、彼は言う。あまりの声量に驚いたのか、橡の木に止まっていた小鳥達が鳴きながら空へと飛び立つのが聞こえた。 「今日、秀吉様のお言葉に背いた!! 秀吉様のお考えを否定したのだ!!」 「え……?」 それは彼と言う人間から想像できない言葉だった。彼は自分を取り立ててくれた秀吉様を神の如く崇め奉っている。秀吉様のお言葉は彼にとって絶対であり、それ以外は赦されないと彼自身が語っていた。言葉はなくとも、その生き様が。そんな彼が、秀吉様のお言葉に背くだなんて。一体何があったのだろう。そんな疑問に答えるように、彼は叫んだ。 「貴様のせいだ!!」 「は……?」 「貴様さえいなければ、私は迷いなどしなかった!! 秀吉様に背くことなどなかった!!」 何故そこで私が出るのでしょうか。問いたくても、言葉にならない。彼があまりに悲痛な声で叫ぶから。宥めるように軽く背中を叩いてやれば、腕を掴んでいた手が背中に回った。背骨が軋むほどに抱きしめられて、その瞬間頭の中が真っ白になった。 「今更他の女など娶れるか……っ!! 貴様以外の女に価値など無い!!」 熱い声が、耳元で叫ぶ。その言葉は無に近い頭に痛いほど刻み込まれた。初めは痛みと驚きだけだったが、意味を理解するにつれて、視界が滲んだ。 「で、でも……私には身分が……」 「身分が何だと言う。貴様は、私が神に――秀吉様に背いてまでも欲した女だ!!」 嗚呼、この人は。私なんかのために一体どれほどの覚悟をして下さったのか。 思うだけで涙が溢れた。 果たして彼がそこまでしてくれる価値が私にあるのか、私には分からなかったけれど。 彼が言うのだから間違いない。 「私の元に嫁げ。断わるなど赦さない! 貴様は今日から私の妻だ!!」 高らかに、はっきりと告げた彼に、私は「はい」と涙声で呟いて広い背中に腕を回した。 そんな私たちを祝福するように、橡は穏やかに葉を鳴らした。 縁庵さまの、ゆかりさんより頂きました! デフォルトは私の名前にして頂いております。わざわざありがとうございます。 嬉しいです、ありがとうございました〜!! |