卒業間近の二月なんて、ほとんど真面目に授業なんかある訳がない。
うちの学校は付属の大学があり、学年の半分はエスカレーターでそこへ進学する。
私は親の勧めがあって別の短大に進学するけど、それでも推薦で秋にはあっさりと決まった。
だからこの時期、うちの学校の3年生のほとんどが自由登校。
「!一緒に帰ろう?」
HRが終わって荷物をまとめていると、クラスの友人が近づいて来た。
「ミカと千夏がカラオケいこーって言ってるしさ、一緒に行こうよ!」
だけど私には、何よりもしたいことがあった。だからにっこり笑って断ることにする。
「ごめーん、部活やってきたいんだ」
「えー…部活って。今1、2年もテスト前で活動してないじゃん」
「…自主的に?卒業までに仕上げたいんだ」
「もー…解った!でも絶対、今度付き合ってよね!」
友人には付き合いたての彼氏がいて、多分遊ぶついでに色々相談したいんだと思う。
じゃあ週末買い物にでも付き合ってよと誘うと、花が咲いたみたいに満面の笑みを浮かべた。
「うん。じゃあまたあとでメールするね」
「ばいばい」
走り出して行く友人。その後ろ姿を見送って、私は気合いを入れ直した。
「…よし」
タイムリミットは来週いっぱいまで。
※
「失礼しまーす…」
校舎旧館の4階奥に私のお気に入りの場所はある。
美術室。私は3年間美術部として活動していた。
3年生はもうほとんど来ていないし、下級生はテスト期間で部活動禁止。
だから最近ここには誰もいない。
準備室からキャンバスを取り出した…描き途中の風景画。
うちの学校の校門に入ってすぐのところに、まだ若い楠がある。
誰が世話をしているのかはよく知らない。
根元の片隅に巻付けられたプレートに何か字が書いてあるような気がするけど掠れてしまって読むことが出来なかった。多分何年か前の卒業生の卒業記念樹とかじゃないかな。
校門から入った時、ちょうど四月の桜の時期には新しい校舎と桜のピンク、楠の新緑が綺麗にさざめいて見える。この学校に入学した日に見たその風景が忘れられなくて、瞼の裏のこの風景をどうしても形に残したいと思って美術部に入った。
絵なんか授業くらいでしか描いたこと無かったけど、やってみりゃ出来るもんだ。
先生や先輩に指導されながら部活として活動するうちに、誰にでももらえるような物でも、小さな賞をいくつか貰ったし。
だけどあの日の風景は、思い通りに描けたことはない。
こうして絵を描くのは多分これが最後になるだろう。
大した夢もない。
その上単なる一般人に過ぎない私は美大に入ろうなんていう大それたことを思ったことはない。
だからこそ。
あと一ヶ月、卒業までにどうしてもあの頃の気持ちとあの風景を思い出したかった。
下書きを終えて、今日から色塗りに入ろうというところ。
絵の具を出して、髪の毛を邪魔にならないように結んで、エプロンを装着。
そのまま絵に集中…するはずだった。ただ、今日は状況が違ってた。
「おや…?」
そこに人が現れた。すごくすごく綺麗な人。白くて細くて女の人みたいに。
シルバーの細いフレームの眼鏡の向こう側か私を見つめている。
「…お邪魔だったかな?」
「へ…あ!!!」
視線が一直線に私の額に向いているのに気付いて、慌てて前髪を結んで出来たチョンマゲを外した。
「今活動してないだろうと思って来たんだけど…邪魔してすまないね。それじゃあ」
くすくすと笑って背を向けて帰ろうとしている。
なんか用事があったんじゃないの!?と気になってしまって、思わず
「あの!!用事ですか?だったら私、帰りますよ!!」
声を、かけてしまった。
ふわふわして見える髪の毛が美術室に入り込む光を反射して光った。
その姿はまるで、王子様。そう、童話に出てくるみたいな。
「…でも、君はここの部員で部活中なんだろう?
君が帰る必要はないだろう、OBとはいえ僕が部外者なんだから」
「で、でも部外者がわざわざ来たんだったら尚更大切な用事じゃないんですか?!」
「そうだね、大切と言えば、大切…かな」
長い指が、美術室のドアを閉めた。そのまま、教室をぐるりと見回す。
「…ここは昔から変わらないね」
「…お茶…お茶、どうですか!?
テスト期間だったり卒業前だったりして、今学期の文化部の活動はもうないですし。
だれも来ないんでゆっくりして行って下さい」
私の好きな部屋を誉められたみたいな気がして、なんだか無性に嬉しかった。
お茶に誘ったのも、だからだと思う。
断られるかなと思ったけど、彼はにっこりと笑ってありがとうと言った。
見た目通り優しい人で良かったな…。
※
王子様の名前を尋ねると、涼やかな声でこう言った。
「竹中半兵衛だよ。君の名前は?」
「…、です」
「さん、綺麗な名前だね…
さんって呼んで良いかい?」
「は!はい!!!」
勢い余って叫んでしまった私に、竹中王子はハハハと笑った。
こうして誰かが持って来た湯沸かしポットで沸かしたお湯でいれたティーバッグの紅茶を飲んでいても竹中先輩のような美形が目の前にいれば、高校の美術部の古い教室が一瞬にしてオシャレなカフェのような錯覚を起こしてしまう。
部室の古いマグカップだってどこか有名ブランドの高級品のようだ。
「…描き途中?」
するとマグカップを片手に竹中先輩は私のキャンバスに近づいた。
「…卒業まであと1ヶ月しかないから…最後の作品になる予定なんです」
「…へえ…上手いのに。絵の道には進まないのかい?」
「そんな!!無理ですそんなの!!!そ、そうだ、竹中先輩は?」
「僕?」
「絵、上手そうだし。先輩は美術専攻ですか?」
すると先輩は、私に向かってまた柔らかく微笑む。
「…僕は法学部だよ」
そうして口にした大学名はうちの高校から進学するにはほとんど奇跡的とも言えるような名前で。
この人は格好良くて優しいだけじゃなくて頭もいいんだなとほれぼれした。
「…絵は趣味…かな。でも大学に入ってからは忙しくて、絵筆を取る暇もなくて」
「じゃあ…今は春休み、ですか?」
「いや、そうじゃない。大学はね…昨日休学してきたんだ」
「…どうして?」
そんなに良い大学なのに、先輩はこんなにも格好良くて優秀なのに。
なんだか彼の考えていることが解らなくて問いかけた。
だけど彼は曖昧に笑って、唇に人差し指を当てる。
「………………………秘密」
どきっとした。
女の人みたいな顔でいたずらっぽく笑う先輩の姿はカッコイイというよりも、ただ綺麗。
ここは小汚い高校の美術室だというのに、綺麗な先輩がここに佇んでいるだけで、今度はヨーロッパの映画のワンシーンのように見える。
「……ねえ、僕も描いていいかな」
ぼけっと間の抜けた顔をしていた私は、返事をする間もなく慌てて鞄の上に置いておいたスケッチブックを差し出した。
ありがとうと言った先輩がまたあまりにも綺麗で…彼の言う秘密について追求することも忘れてしまう。
ぱらぱらとそれをめくって…そして先輩は、こう言った。
「さん」
「…はい?」
「君は…学校がとても好きなんだね」
※
「ー!お茶して帰ろうー?」
月曜日。
王子様の夢から覚めない私が間抜け面を晒している間に、誰も真面目な人が居ない授業がだらしなく終了した。
HRが終わると同時に我に返った私は慌てて荷物をまとめ、鞄を持って立ち上がる。
するとそこで友達からまた声をかけられた。
「あ、っと…ごめん!今日も部活したいんだ」
「えー?またあ?」
「あとちょっと…なんだ。来週から付き合うから」
「はホントに部活バカだよね?もー仕方ないなあ…絶対だよ?」
「うん、ごめんね?」
挨拶もそこそこに走り出した私に、友達は呆れ返ったあとに笑ってくれた。
旧館へ続く渡り廊下を走る。
私と同じ物好きな三年生以外は部活なんかやらずに帰ってる時期だから、学校内は家に帰る生徒のさざめき以外は何も聴こえない。
いつもは長くて面倒くさいと思ってた階段も、美術室まで行ったら世界が変わる。
「こんにちは、さん」
だってそこには、あの日『また月曜日に来る』と言って別れた王子様がいるのだから。
竹中先輩は持っていたスケッチブックから目を離して、私に向かって優雅に微笑んでくれた。
私は一瞬彼に見とれてしまった後で慌てて前髪を直す。
そんなことしても、この人の綺麗さに敵う訳無いんだけど。そして荷物を置いて近づいた。
「何してるんですか?」
だけど彼が随分楽しそうに見ているスケッチブックを見て、血の気が引く。
「そ、それ私のっっ!!!」
大人っぽい先輩の為に、精一杯よそ行きの顔をしていたのに全部台無しだ。
びっくりして声を荒げると、先輩はクスクス笑った。
「そう、さんの。見せてもらってたんだ」
「え、でも…!私のなんか上手くも面白くもないし…!」
「そうかな?一生懸命で…僕は好きだよ」
「すっっっっっ…」
好きだよ、は私の絵に向けて言われた言葉のはずなのに、何故か私は盛大に顔を赤くしてしまった。
焦って手で顔を扇いで冷まそうとしたけど、一度熱くなった頬はなかなか元に戻らない。
「ほら、見てご覧」
先輩はそんな私の様子に気付いているのかいないのか、涼しい顔をしてスケッチブックを工作用の長机に広げた。
三年間で溜め込んだスケッチブックは10冊以上ある。
初めは形をとることで手一杯で、描かれた風景も花も果物も、全部歪で不格好。
形を取ろうと努力するあまり、定規やコンパスで引いたような線になってしまっている時期もあった。
自分だけの線を探して少しずつ練習を重ねて、3冊目になる頃には人物や建物に挑戦するようになった。
そうして無理矢理絵心を培って来た私の美術部での三年間は試行錯誤の連続だった。
「君は柔らかそうな人柄に見えるけど、本当はだれより努力家で一生懸命な人なんだね」
一冊目と金曜日に貸したままになっていたスケッチブックを見比べて、先輩はそう言った。
「絵を見れば全部解るよ…そういうところ、僕の親友みたいだ」
先輩の白い指先が、鉛筆で汚れたスケッチブックの白いところに触れる。
怠けておきっぱなしにしていたそれらを見られるくらいなら持って帰れば良かったと思う反面、絵があったから今日こうして先輩と話すネタが出来たと喜ぶ自分も居る。
…ところで先輩の親友って、どんな人なんだろう。
やっぱり先輩くらい格好良かったり、綺麗だったりするのかな。
「君はどうして学校ばかり描いているんだい?好きなの?」
すると綺麗な横顔に見とれていた私の目を覚まさせるように、先輩は一番新しい…多分高校三年間の最後になるであろうスケッチブックをパラパラとめくりながらそう言った。
「あ…えっと…」
こんな感情でうまく説明できるか解らないし、どう説明していいのかも解らなかったので、とりあえず実物を見せることにする。
私は準備室から描きかけの絵を持って来て、彼に見せた。
「これ…金曜日にも描いていたよね」
「はい」
「桜と校舎…ああ、校門のところかな」
「描きたいのは、本当はこの楠なんです。
みんな桜ばかり見てるけど…
入学式の日、桜と若い楠の葉が風に波打っていたのが忘れられなくて。
あの日の風景が描きたくて美術部に入って、校舎や植物を描き続けたんですけど…
やっぱり素人じゃ上手く行きませんね。そんなこんなで三年生になってしまいました」
先輩は、私の話に何故かびっくりしたような顔をした。
そして目を細め、窓辺に近づいたので、私もそれにならって先輩の視線に合わせて下を見る。
「あの木…僕らの代の卒業記念樹なんだ。
たった数年前なのに…何だか酷く昔のことのような気がするよ」
どこか寂しそうな声だった。
四階の窓から見える風景は町並みと、校庭、そして夕焼け前の青い空。
先輩の白い輪郭が青に滲んでとても切なく見える。
「でもこうして僕らの植えた樹を見て、さんが僕と同じ美術部に入ってくれたなんて
…なんだか嬉しいよ」
さあ始めようか、先輩はそう言って私の肩に軽く触れて微笑んだ。
無意識で先輩の隣に行ってしまったから、すごい至近距離にいたことにそこで初めて気がついて私の顔はますます赤くなってしまった。
二人で絵を描くといっても、一緒に作業するわけじゃない。
私は自分で決めていた通りキャンバスに絵筆を走らせて、先輩は優雅な仕草で何か描いている。
初めて会った日に貸したスケッチブックにはいくつか簡単なデッサンが残っていて、それをちらりと見ただけでこの綺麗な人が見た目と想像通りかなり絵がうまいのがすぐに解った。
月曜からは先輩は自分の道具を持ってきていたけど、私は先輩の絵がもっと欲しいと思ったから残念だな、どうせなら私のスケッチブックを使って欲しかったなと内心思った。
「…スケッチブックを買うなんて久々だし…
週末はクローゼットの中をかき回している間に終わってしまったよ。
絵の具は全て処分してしまっていたから、鉛筆やパステルくらいしか残ってなかった」
私の視線に気がついたのか、先輩は優しく話し掛けて来た。
だけど、激しく赤面して吃りながら「…そ、そうですか…」などとしか返せない自分が悔しくてならない。
もっと口が上手ならもっと話が出来るのに。
すると先輩は自分のスケッチブックに視線を落としたままで言った。
「…君は」
「…は、はい?」
「いいのかい? もうすぐ卒業なのに、進路が別になってしまう友達とかと一緒にいないで」
寂しくは無い?と。
「…今週一週間で」
「うん?」
「今週まではしがみついて頑張ってみようって、決めているんです。
それで描けなかったらあきらめようって。
せ…、先輩も」
たどたどしい私の言葉を、先輩は目を細めて続きを待っている。
「先輩こそ、いいんですか?
私に付き合ってここで絵を描いていて…ここで何かやることがあるんじゃないですか?」
「…僕は、ここに…無くした物を探しに来たんだ。
ここに居たときの僕は、それを知っていた気がするんだ。
でもね、今の僕はそれをいつどこで無くしてしまったのか思い出せない」
「え…じゃあ、探しようがないじゃないですか?」
「そう…だからそれをね。思い出したくて…探してるんだ」
いつの間にか先輩は手を止めて私を見ていた。
先輩の姿はいつも通り綺麗で、だけどその目は悲しいくらい澄み切っていた。
その目をどこかで見たことがあると思って…思い出す。
小さな頃に死んでしまったおばあちゃんの目の色だ。
おばあちゃんも竹中先輩のような目をして、最後に優しく微笑んで私の頭を撫でてくれた。
……だけどどうして竹中先輩のことを見て、おばあちゃんと同じだなんて思ったんだろう。
「君が今週いっぱいまで頑張るって言うなら、
僕ももう諦めようかと思ってたけど…一緒に頑張ってみようかな」
※
美術部に入って、絵を描くことが好きになった。
静かな美術室で一人で絵を描くことにも抵抗は無いけど、こうして何日も二人で絵を描いていると…会話は少なくても誰かと同じ空間で一緒に作業することはやっぱり楽しいなとか思う。
先輩は『探し物をしてる』とか言ってたけど、ここに来るといつも絵ばかり描いていて他に何かしている様子も無いのは何日経っても変わらない。
そしてたまに私の絵を見ながらアドバイスをくれることもあった。
「…迷ってる?」
「………………………………へ!?」
「眉間、皺が寄っているよ。折角の可愛い顔が台無しだ」
「かっっかわっっっ!!!!」
「何が君をそんなに困らせているんだい?」
「…あ…えっと…楠の緑が…綺麗に出なくて…」
しどろもどろになりながら答えると、先輩は近づいて来た。
しばらく私の絵と絵の具箱を覗き込んだ後、鮮やかな黄緑と鮮やかな青を手に取る。
「黄色が強いんだと思う…これでは秋の色だね。
これはこれで色が合うけど、春の絵なんだろう?折角の綺麗な桜色が勿体ないよ」
混ぜてこの上から書き直してご覧、と言った。
言われた通りにすると、今まで違和感しかなかった若い緑が色鮮やかに輝いて見える。
「あ、ありがとうございます!!」
「…いや、僕はアドバイスだけで大したことはしていないよ。
色を作ったのも描いたのも君じゃないか」
君は色彩感覚がとても良いようだから自信を持つといい、と。最後に付け足してくれた。
そんなことを言われたのは生まれて初めてで、しかもそれを言ってくれたのがこんなにも綺麗で絵がうまい竹中先輩で。
たったそれだけで、今描いている自分の絵が今までで一番良いもののような気がする。
緊張しっぱなしの私に、先輩は気をつかって色々な話をしてくれた。
好きな画家、好きな音楽、好きなもの、好きな色、好きな季節…。
初めは緊張しまくって身体も言葉もがちがちになっていたけど、キャンバスに白い部分が無くなって細かい描き込みを始める頃には大分落ち着いていて、いつも通りに描けるようになっていた。
二人でいても、集中して一人で描いているような感覚になるくらいには。
だけどやっぱり、視界の隅に少しでも綺麗な横顔が入ってしまうと、どきどきして落ち着かなくなっちゃうんだけど。
…私は先輩のことが好きなんだと思う。
少し慣れて来たので親友さんについて聞いてみた。
すると先輩は楽しそうに笑ってから「会ったらきっと驚く」と言った。
それ以上なにも教えてくれなかったから、からかわれたのかもしれない。
あと、先輩は描いてる絵を絶対に見せてくれなかった。
鉛筆を走らせる音とページをめくる音がたまにするから、確かに描いているんだとは思うんだけど。
何を描いているのか聞いてみると、先輩は初めて会ったあの日と同じ表情を浮かべて『秘密だよ』と微笑むばかり。
…本当はずっとこうしていたいと思ってた。
一週間なんて言わなきゃ良かった。
もっと長く…………そうだ。卒業するまで…とか?そう言えば良かった。
大好きな風景を大好きな絵で思い出して、すぐ側には初めて好きになった人が居る。
それにもうちょっと早く生まれていたら、先輩と一緒に絵を描けたんだと残念な気持ちにすらなる。
先輩の探し物が見つからなければ…と思いかけて、手を止める。
先輩を見た…真剣な顔で今日も絵を描いている。
私の視線に気がついてこちらを見て…目が合った。
優しい表情で小首を傾げた。
………私、今最低なことを考えたよね。最悪。
※
絵が描き上がったのは金曜…最終日の夕方だった。
「綺麗だね」
先輩は仕上がった絵を見て、そう言って頭を撫でてくれた。
くすりと笑って私の鼻の頭に触れる。
「汚れてるよ」って絵の具を拭ってくれた指先が触れた瞬間、また顔が熱くなってしまった。
「あの楠…植えた頃には桜に負けるだろうと思って、僕は正直無意味だと思っていたんだ」
「…はい」
「でもああしてまっすぐに立っている姿を見ていると…いいね。
それに君の絵を見ると、鮮明な位に想像出来るよ。きっと綺麗なんだろうね…。
勝ち負けじゃないんだと気がつかされた。春に桜と並び立つ姿を見てみたくなったよ」
先輩はそう言いながらどこか遠い目をしながら私の絵を見ている。
これからももっと、大きく育つといいと呟く。
「実際はもっと綺麗ですよ。先輩は卒業してから見たことが無いんですか?」
「…ああ、見たこと無いね」
「今年は是非見に来て下さい。
私は居ないけど、楠も桜も学校も変わらずにここにあるから」
すると先輩は、うっすらと寂しそうな表情を一瞬だけ浮かべた。
そしてまた微笑み、はっきりとした口調で拒絶した。
「僕は来れないんだ」
「……え…」
「………………とても残念だけどね。
でも君の絵をみたから大丈夫だよ。
こんなに綺麗な光景を僕はいままで見たことが無い。
僕はもう、満足だ。素敵な風景を教えてくれてありがとう」
私の絵なんか。
描き上がったし、先輩のおかげで今までで一番の出来で。
今の私に描ける限界まで注ぎ込めたからもう満足だとは思ったけど、それでも実際に見た風景はもっともっと綺麗なのに。
そんなことないです、見に来て下さい。
いや、一緒に見に来ましょう。
その一言が言えなかったし、前に踏み出せなかった。
「探し物は見つかりましたか?」
だから、かわりに尋ねてみた。すると先輩は、とても満足そうな顔でにっこりと微笑んで
「見つかったよ」
と、言った。
だけど「そうですか」としか言えない、やっぱり口下手な私。
「君のおかげだね」
そう言って先輩は私に向かって右手を差し出す。握手を求められてる。
私はその白くてほっそりした手を握り返して、美術室に差し込む夕日に染まった綺麗な人を見上げた。
何か言おうとしたその時、机の上に置きっぱなしになってた先輩の携帯が震える。
しばらく握手をしたまま放置していたけど、最後に呆れたように「…………流石。しつこいな」と苦笑を浮かべる。電話には出ず、そのまま切ると荷物をまとめて、最後に私を見た。
「魔法の解ける時間が来てしまったようだ……名残惜しいけれど。一週間本当にありがとう」
そして、『さようなら』と言って背を向ける。
その背中が寂しそうで、悲しそうで。
だから私も最後に
「先輩!」
まだ乾き切っていなかったけど。
それでもこの一週間の素敵な時間をくれた先輩に、この絵を描き上げる力になってくれた先輩に。
「先輩に、この絵あげます…いや!もらって下さい!
そんな…寂しそうな顔をして見る風景じゃないんです。
春ここに来れないなら…見てもらえないなら…せめて…。
…私なんかの絵じゃ、全然足りないし勝てないのも解ってるけど!」
最後に小さく微笑んで、絵を受け取ると小さな声で『僕なんかの為にありがとう』と言った。
そのあと、私は勢いで先輩に『好き』だと告白しようとした。
でも先輩は寂しそうに『それは僕に言ってはいけない大切な言葉だよ』と、私の唇に人差し指を当てて封じてしまった。
先輩がいなくなったあと、暗くなるまで美術室でわんわん泣いて、腫れぼったい顔のまま家に帰った。
………私の遅い初恋はそれで終わり。
夢のような一週間もそれで終わって、二度と来ることはなかったし、先輩に再び会うこともないまま私は高校を卒業した。
そして半年後のこと。
名前の無い小包が私に届いた。
びくびくしながら中身を見ると、そこには一冊のスケッチブックが入っていた。
見覚えのあるそれの表紙をめくると、静物画のデッサンからスタートする。
植物、建物。
予感があって、あの日先輩と一緒に見た私のスケッチブックのように、ひとつひとつ辿って行った。
半ばから学校の風景が出てくるようになる。
そして更にページをめくると、どこかで見た人物のデッサンが増える。
そこにいたのは私だった。先輩と一緒に絵を描いていた私。
震える指で最後までめくった。
最後の絵は、パステル画…私が竹中先輩に教えた大好きな風景。
私と同じ構図で、全く風景が描かれていた。
そしてさいごのページに『君に出会えて良かった』と。
弱々しい字でそう一言添えて、その悲しくて綺麗なスケッチブックは終了。
それと同時に…何故だか先輩もこの世界から居なくなってしまったようなような気がした。
魔法が解けて、灰かぶりにもどってしまったシンデレラのように。
でもシンデレラは身なりのよくない使用人としてはずっと存在している。
だけど先輩は例えガラスの靴を持って国中を探しまわったとしても、もうこの世界のどこにも居ないんじゃないかと。
大好きになった人が私を覚えていてくれて、こうして贈り物をしてくれたことはとても嬉しいのに、ただ不安で、ただ悲しくて。
涙があふれて、ようやく出た言葉は嗚咽だけだった。
………こうなることが解っていたなら…やっぱり無理をしてでも約束をしておけば良かった。
あの人と過ごした時間。
私にとってあの時が今も宝物であるように、竹中先輩にとっても宝物であったのなら良いと思う。
君とみた空 の真雪さんから相互記念で頂きました。
アバウトにリンクを貼っていますのでぜひ訪れてみてくださいな〜。素敵な夢がたくさんございます。
真雪さん、ありがとうございました!!
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