流血注意

旅立ち













ミルク色の浴槽に湯をたっぷり張って、そこに左腕を浸す。
鍵を掛けたここには誰も入って来れない。そもそもこんな夜中なのだ。誰も
気づきはしないだろう。そうすれば自然、私の亡骸を見つける人は決まって
いた。
一本の線から滲み出す赤を見つめて、これまでの後悔と自責と事の原因とな
った存在への恨みを強くする。まるで金魚のひれが水に舞うかのように散り
消えて行くそれは、やがて長い時を経て私の体内から汚い黒を完全に出し切
ってしまえば終わりだった。蛇口から変則的に落ちる水の音が、それに向か
っての時間を数えているように聞こえる。だから私はそれに耳を済ませて瞼
をゆっくりと閉じて、ただひたすらにその時を待った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 







 

政宗がいない内に、事を終わらせなければ。
 
 
 
昨日買ってきたばかりの剃刀の刃を留め具から取り外して見れば、それは鈍
色に反射して私の顔をわずかに映した。明日の朝、政宗が帰ってくる。
であれば今日の午前零時を過ぎる前に事を成さなければ間に合わなくなる。
完全に、完璧に行わなければいけない。そして速やかに。
出来れば私の亡骸を見つけるのが弟であることを願って。そう、両親ではい
まいち本人にショックを与えられないから駄目なのだ。
しかし、それにしてもと、陽性だと言って証拠を見せた時の二人の顔を思い
出せば、口元に堪えきれない笑みが浮かぶ。あれは傑作だった。今までに無
い親の顔を見れたのは数少ない冥土の土産になるだろう。その後は適当には
ぐらかしておいたけれど。
 

妊娠なんて、してるわけが無い。
 

どこまでも愉快だ。しかし二人の誤解はそれでいいのだ。こちらの目的は二
人への脅し、寵愛した政宗の本性を見せてやることと私がいなくなることで
周囲に噂されることにあるのだ。娘殺しの噂でも立って息子共々村八分にで
もなってしまえばいい。嘘は、それがバレるまでは真実なのだから。
勿論、妊娠なんて死因追及のための解剖をされてしまえば一発で嘘だとばれ
てしまうことくらい、こちらだって分かっている。例えそこまでしなくても
私が証拠と称して親に投げ渡した検査器具を専門家に調べさせてしまえばそ
れで一発だということも。だけど。
だからこそ、私は今から此処までするのだ。こうしてしまえば私のついた嘘
が本当かどうかすらさした問題でなくなる。
結論から言ってしまえば、いくら行程に何があろうと死んでしまえばそれま
でなのだ。重要なのは政宗のせいで私が死んだ、それだけだ。
最後に見た時計では午後零時になるまで一時間を切っていた。手首に刃を当
てるのにためらいは無い。そのまま横に一線、景気良く引けばどこか解放さ
れたような気持ちがして心が安らぐのを感じた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
どくどくと体中の血が沸騰するかのように怒り立つ。嫌だ死なせて欲しい。
こんなはずでは。予想していないことは無かったけれども、あり得ない事だ
と思い対策を立てるまでも無いと決めつけていたのだ。近づいてくるそれに
最悪の事態が頭をよぎるのを無理矢理隅に押し込めて、とにかくと手首を強
く揉んで血を出るように促した。そうしなければならなかった。
早く早く早く。出てけ出てけ出てけ。何で何でもっと出てよと腕を強く揉む
程に、それは血管を圧迫して止血へと繋がってしまう。逆効果だった。
 
ガチャン。
 
微かに聞こえていた足音が、背後のドアの前で止まった。今度こそ聞き間違
いでもなんでもなかったと悟る。恐怖に憑かれたかのように、血を流す腕と
逆の、揉んでいた右手が動作を止めた。その間にも血はたらたらと細い糸筋
を引いてバスタブに流れ落ちて溶けていく。先程閉めたドアの鍵が、再び引
っ掛かる音がした。
 
 
 
「So bad girl, 開けやがれ。、いるんだろ」
 
 
 
ドア越しに聞こえたその声に頭が錯乱するようだった。
よりによって何で政宗が。帰宅は朝のはず。頭の中がぐるぐると回る。
開けるべきなのか、いいや。それは絶対に出来ない。それをしたら何もかも
が終わりだったし、此処まで自分がやってきたことが全て無に帰る。
自分の立てた計画のその何もかもが弟によって阻止されてしまう。ならこの
まま此処で、そう考えたけれどそれも無理だった。
失血死で死ぬなら相当の量の血を流す必要がある。故に時間もかかるのだ。
このままおちおち待っていたらその隙にドアの向こうにいる弟が此処を開け
て入ってきてしまう。なら、もういっそ。そう考えてバスタブの淵に置いて
おいた剃刀の刃に目をやった。首の静脈を、切るか。ほんのわずか逡巡した
その時、思考の全てを断ち切るかのようなタイミングで背後のドアが叩かれ
た。先程と違いせかすかのような乱暴さを含んだそれは、私への最終警告だ
った。
 
 
 
「10秒待ってやる。でないと壊すぜ、kitty」
 
 
 
その言葉に腹を決めるしかなかった。
此処まで来てどうすれば良いか分からない程に馬鹿ではない。無理だ。例え
今、此処で首を切ってみせた所で、入って来た政宗は私の止血をするに決ま
っている。終わりだ。観念するしかなくて、腹を決めて呼吸を一つして刃を
置いた。立ち上りドアの取っ手に手を掛ける。もうどうにでもなれと開いた
ドアの先に、長身の弟の胸が見えた。心臓が壊れてしまいそうなほどに騒ぐ
。恐る恐る顔を上げれば驚いたように私を見下ろす瞳とかち合った。
三日振りに見る弟は、彼にしては珍しく、酷く疲れた表情でいた。
 
 
 
「此処で何してた」
 
 
 
地を這うような低い声に気まずくなって視線を下に降ろせば、答えない私に
焦れたのか、そのまま政宗が私を押して風呂場へと入って来た。
そうして私の背後にある溜まった浴槽の湯と側にあった剃刀を見て察しが行
ったらしい。無言で私の左腕を握り上げてそこを見た。
湯から出したせいで、流れていた赤の筋が無くなって痕が残っているだけの
そこ。それが見ていて気に食わなくなった私は、政宗の目の前で逆の手の爪
を使って思いっきり引掻いてみせた。政宗の顔が驚愕に染まる。
 
 
 
「おい、やめろ」
 
「触らないで」
 
 
 
もう何もかもが失敗してこれが終わってしまっていることくらい分かってい
た。今更何をやっても無駄だけれど、何の功績も残せないのだけが悔しくて
仕方が無い。他の女を触った手が、私の腕を掴んでいる。
そう考えたら一度はあきらめた気持ちがまた膨れ上がってきた。完全に蘇っ
てしまったら私は政宗を許してしまう。そんなのも嫌だ。だからその前にせ
めて本人の前で。そう思って一心に掻き毟っていた右手もすぐに政宗に捕ら
えられてしまえば、とうとう私の目からは涙が零れた。
 
 
 
「俺は、そんなに信用なんねえか」
 
 
 
泣いていたのは政宗だったのか。
涙が混じったような声に顔を上げれば、当の涙こそ無いものの顔を苦痛に歪
める弟の顔があった。そのまま眺めていると政宗に突然抱きしめられて、頭
を強く胸板に押し付けられてしまった。握り締められたままの腕が痛んでう
めき声を上げるけれど、逞しい胸に押し付けられているせいでくぐもって聞
こえない。抱きしめてくる強い腕の力に体も痛い。だけど、それ以上に心臓
の辺りが痛くて壊れそうだった。
何で置いていったの、伝えたい言葉の代わりに私の喉からは嗚咽が洩れた。
結局いつも通り今回も私の負けで、最後の瞬間になっても弟に一度も勝てな
いままで終わるのかと頭をうなだれた時。ちゃりん、と。
突然場違いな鈴のような金属の音が耳に聞こえた。反射的に顔を頭上にある
政宗へと戻すと、キスと共にそれを鼻の頭に当てられた。
 
 
 
「Sorry, don't cry anymore. 不安にさせたな。断るのに思いのほか時間が
 かかっちまった上に親が帰ってくるのも想定外だった。だが、それだけじ
 ゃねえ。俺はやることもやってきた」
 
 
 
そう言って目の前に垂らされたそれは、銀色に光る鍵だった。
何の鍵か用途も分からず、唯それを虚ろに見つめる私を呆気に取られている
と見たのか。まだ分からないのかと言って政宗が口を開いた。その顔に浮か
ぶのは、いつもの勝ち誇った勝者の笑みだった。
 
 
 

「There is not a relation up to us either. これから二人で住むマンシ
 ョンの鍵だ。俺がを手放すと、本気でそう思ったのか?」
 
 
 

どうだと言いたげに満足そうに見てくる政宗の片目が恨めしいやら厭らしい
やらで、感情がない交ぜになった私の目から溢れ出て零れ落ちたのは大量の
涙だった。
頬を伝ってボタボタと音を立てて水場のタイルに落ちていくそれは、既に足
元の床にこびり付いていた汚い赤をあっという間に溶かして飲み込んで色を
奪った。政宗がまた、愛していると囁いて口付けをする。
それを以前と変わらぬ気持ちで受け止める私が弟の背に腕を回して答える。
政宗の背中はきっと私の腕の血で汚れたことだろう。少しいい気味だと思っ
て気づかれぬように笑う。
 

どこまでも、悲惨な結末だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




 
 

「続きは、とりあえず向こうに着いてからだな」
 
「もう行くの?」
 
「今行かずにいつ行くつもりだ」
 
 
 
簡単に私の左腕に包帯をまいて立ち上がった政宗が此処を去っていってしま
えば、リビングに取り残されたのは私一人になった。
大きな窓ガラスを覆う遮光カーテンを少し捲くってみて、その開いた隙間か
ら広がる景色を見れば、そこには闇しかなかった。今が出発に相応しく無い
時間帯である事くらいこれを見れば誰でも分かることだ。次に時計を見れば
深夜の三時で、草も木も鳥も眠っているといわれる時間帯を指していた。
だけど、私の頭は眠気や不安よりもこれからの事を思う希望で満たされて清
々しくあった。目の前の闇にすら色を見出せる気持ちだ。
一足早く車を出しに車庫へ向かった政宗を追う形で、私が玄関にて靴を履き
終えた頃。廊下にある階段の先、二階の両親の部屋から声がした。おそらく
風呂場であったゴタゴタに目が覚めてしまったのだろうと推察が行く。
 
 
 
「?まだ起きてるの?」
 
 
 
天井から足音が聞こえる。
いつもなら多少のことがあっても起きてこないのに、そんな二人が夜中に起
きてこちらに来ようとしていると言うことは、帰宅してから私が言った嘘を
今も真に受けているという証拠だ。
私の傍らにはいつの間にやら遅いと玄関まで迎えに来たらしい政宗が立って
いて、肩に手を置いて出発を促していた。無視しろと言いたいらしい。
だけど仮にも二人は私達を育ててくれた親だ、挨拶くらいはしていったほう
がいいんじゃないかと私は思う。例え政宗が嫌いで挨拶もしたく無いのだと
しても。それにこんな夜中に消えれば最悪警察を呼ばれてしまうという事を
分かっていないのか、この辺りの考えはまだまだ弟だと思った。甘い。
そうと決まればここは姉である私の出番だ。意気込んでみるけれど、しかし
早くしなければ降りてきた二人に見つかってややこしい事になる。言葉が見
つからなくて、もういいやと言い逃げがてら大声で叫んだ。
 
 
 


「ねえ、お父さんお母さん!全部嘘だったんだよ!でも怒らないでね!
 お互い様でしょ!」
 
 
 


天井を行き来する足音が止まった。
驚いているに違いない。自分でもやりすぎたかと少し反省した。だけど真夜
中に発狂したのかと思うほどに声を張り上げた私を見た政宗は、心底楽しそ
うにその片目を瞑って笑うという反応をした。その顔にまあいいか、なんて
思って一緒に声を抑えて笑う私達は、今日、もうどこにも戻らない。
血が繋がっていないと、知ったから。
 
 
 
 
 



天 使 の 嘘
fin