悪魔が言う













「しね!ばか!!政宗なんて生まれてこなければよかったんだ!!」
 
 
 
子供の頃、姉弟二人の仲の悪さは近所でも有名だった。
普通兄弟というと、ある程度成長すると喧嘩を始めるようになるものだった
が、二人の場合、それまでの仲が良かっただけに余計にその変わりようが周
囲に奇異な目に見えて驚くものだった。
公園で手を繋ぎ、姉と楽しそうにはしゃぐ弟。それが今となっては泥団子を
投げつける姉と砂場の砂を投げる弟の図である。
二人の両親はあまり真剣に子供達の喧嘩を考えていなかったが、それこそが
後に二人の溝を長年にわたって大きくした原因だった。
 
 
 
「なんか年上なのに何も出来ないし、俺以下のくせして!!」
 
 
 
服についた泥をはたき落として姉を睨んだ政宗は、涙を眼の尻に浮かべなが
らそう叫んだ。新たに作った泥を右手に投げる体制をとっていた姉は、その
言葉に図星をつかれたのが悔しくて言い返せずに唇を噛んだが、すぐさま持
っていた泥団子を地面に叩き落し、おもむろに弟に歩み寄るとその顔を思い
っきり平手で打った。
我慢が出来ずにすぐに行動に出るのは子供の特徴だ。驚き、とうとう決壊し
た政宗の涙を見ても尚、その姿に罵声を浴びせるだった。
小一時間前には姉に連れられて遊びに来た公園だったのに、砂場はすっかり
子供の喧嘩場と化してしまっていた。
最近喧嘩をする回数が増えてきたのを子供達本人は自覚していなかったし、
その積み重ねが後に影響を及ぼすことすらも知らなかったが、少なくとも弟
はまだこの時、何だかんだと言ってもそれほど姉の事が嫌いではなかった。
むしろその逆で、政宗は一度として姉のことを嫌いだと思ったことは無かっ
た。
父と母の厳しい躾と教育から逃れられるのはいつだって姉といる時だったし
、その時だけは歳相応に姉と共に泥にまみれて遊べた。喧嘩をすることすら
も政宗にとっては楽しみだった。現に、喧嘩をしても次の日には何事も無か
ったかのようにまた二人で遊んでいたのだから。
そんな毎日をずっと繰り返すのだと、当然のように政宗は思っていた。
 
 
 
「あっち行け!バカ!」
 
 
 
しかし今日はそれまでと違った。
自分を置いて公園を飛び出し家路を走りゆく姉の後姿を見る。
喧嘩をしても一緒に家へ帰らないのは初めてのことで、政宗は涙の跡が残る
その場に呆然と立ちすくんだままで取り残されてしまった。
 
 
 
先に自分を突き放したのは、だった。
 
 







 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ももう高校生かー」
 
 
 
母の弾んだ声を耳にして、二階の部屋にいた政宗は自分が呼ばれたのかと思
い、聞いていた音楽を反射的に止めた。
しかしどうやら聞き間違いであったと気づき、再度再生ボタンを押そうと手
を掛けたとき、そこで丁度良いタイミングで、というよりは運悪くか。
自分を呼ぶ声がして結局イヤホンを外さなければならなくなった。それで面
倒くさく思いながらも椅子を立って下の階へと降りていけば、自分を呼んだ
母とその隣に窓の外に目をやった姉がいた。
何故かその姿が目に入ったと同時に幼い日の思い出が蘇り、胸が騒ぐのを感
じた。最後に話したのはいつだったか。
そんな事を考えるとよく分からず胸の辺りがもやもやとしたが、とりあえず
押し込めて平静を装い母に用を尋ねれば、今日は姉の誕生日だからケーキを
買って来るようにと頼まれた。
本人が嫌う人間に買いに行かせなくてもいいじゃないかと政宗は思ったのだ
が、そうして眉を顰めるよりも先に、同じ事を思ったのであろう姉が母に抗
議の声をあげた。
 
 
 
「いいよ!私が自分で行く!!自分で好きなケーキを選んで買ってくるから
 お金だけちょうだい!!」
 
 
 
本人を前にして拳を強く握りしめていきり立つ姉の姿に、自分がそうまで嫌
われる何かをしたかと政宗は不愉快な気持ちになった。
しかしその姿はまるで小さい頃に公園で自分を罵った姿と同じようにも見え
たから、長く会話をしていない間にも変わることはなかったのだと正直安心
の気持ちも芽生えたのだった。
しかし自分はそうでも姉は違うらしい、噛み付かんばかりに母に突っかかる
姉を前にして政宗は何も言えず二人を見るしか出来なかった。
それで結局、母が姉を甘やかしてお金を多めに渡してケーキを買いに行かせ
ることで話はついたのだが、であれば自分は呼ばれ損だったわけで、時間を
無駄にしたと内心溜息をつきたい気持ちで部屋へ引き返そうとすれば、母が
思い出したかのようにしてまた彼を呼び止めたのだった。
 
 
 
「こっそり、政宗もにプレゼントを買ってきなさい。
 の誕生日だし、きっと喜ぶから」
 
 
 
それこそ不毛だと政宗は思った。
自分は姉が好きで、たとえその思いのままにプレゼントをしたところで姉は
きっとそれを受け取りはしても真にありがたくは思わないだろう。
思ったが、しかししょうがなく長財布をズボンの後ポケットに突っ込み政宗
は家を出た。
それでも姉を嫌いになれないなんて、これが血の繋がりだろうか、なんて思
いながら。
 
そういうわけで、政宗は、もうずっと前から姉のことが好きだったのだ。
そこに疑いの余地は欠片も無い程に。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 

眠気の恐ろしい程に無いのを、退屈をもてあましベッドから身を起こした政
宗は携帯が暗がりに光を放っているっているのを見つけて手に取った。
見ると最近付き合い始めた女からのメールだったのだが、返信を要求するか
のような内容に、こんな時間に普通送ってくるかよと常識を疑い嫌気が差し
たのだが仕方なく短く返信を入れておいた。
なにせ今の女とはまだ一週間しか経っていなかったから、切るにしてもあま
りに早すぎて相手が不憫に思えた。
しかしまあこの調子であれば今回も長くは続かないだろうと思い、電源を落
として携帯を閉じれば、液晶画面が目に焼きついて離れなくなってしまって
いた。加えて体まで活性化してくる始末だったので何か暖かいものでも飲ん
で眠気を煽ろうと部屋を出ることにした。
しかし政宗が部屋を出たところで向かいの部屋からも丁度人が出てきたので
、二人で階段を前にして鉢合わせとなってしまった。
しまった、とすぐに思ったのだが、白のネグリジェを着た清楚な姉の姿が見
れたことに内心良いタイミングで部屋を出たと幸運に思ってしまった。
胸もとが開いているそこから覗く白い肌が、夜の闇に生々しく浮かび上がる
のを見て思わず唾を呑み込んだが、しかし自分は姉を女としてみるほど飢え
てはいないはずだと政宗は己の心を律した。
しかし思春期とやらでは青少年は皆こんなものなのかもしれない。自分に言
い訳をしてみたところで珍しく、の方が口を利いてきた。
 
 
 
「いいよね、政宗は」
 
 
 
ぽつりと、床を見つめたままでが言った。
どういう意味かと分からず聞き返すよりも先に、政宗の口からはいつもの反
射で仲間に返す「What?」という声が出ていた。
それを受けて再度、は静寂の支配する廊下で口を開いた。
 
 
 
「大学、今のままじゃ志望校には受からないってさ」
 
 
 
悄らしく言って目を伏せた姉の姿が酷く艶やかに見えて、政宗は不謹慎にも
背中が汗ばむのを感じた。それを悟られないようにして久しぶりに口を聞く
姉の声に神経を集中させる。
要領を得ない会話に黙ったままでいると、暗い廊下に二人の息を吸う音がよ
く響いて聞こえ政宗は内心酷くうろたえた。
桃色のふっくらとした唇が苦しげに音を紡ぐ。
 
 
 
「私、・・・政宗みたいになれない。ちっとも似てない」
 
 
 
姉が最近、勉強を頑張っていることは政宗も親から聞かされていた。
騒音を立てないようにと注意を受けていたのを思い出して、しかし思い悩む
程に勉学に励んでいたとは思っていなかったので今しがたの溜息に驚いた。
自分は親に小さい頃から期待されて、色々な事をやらされていたから進むべ
き道も同様にして親に決められていた。
その事に疑問は無いが、道を自分で決めなければならない人間にしてみれば
自分は確かに羨ましい存在かもしれない。
言われた言葉はまさしく自分への八つ当たりと取れたのだが、唇を噛む姉の
小さな体を上から見下ろして見て、こんなに小さな存在だったのかと思わず
にはいられなかった。
姉はずっと、弟と比較されることが嫌だったのだ。
あの頃は姉の存在の方が大きかったと言うのに。俯いた拍子に姉の顔にかか
った髪へと、政宗は意図せず手を伸ばしていた。
しかしその瞬間の体はびくりと反応し、政宗を拒絶した。
 
 
 
「・・・止めて」
 
「悪い」
 
 
 
 
 





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「筆頭と姉さん、あんま、っつーか失礼ですけど全然似てないっスね」
 
 
 
言われた言葉に正真正銘の姉弟だと返して鼻で笑ってやったが、しかしそう
言われるたびに内心穏やかじゃなくなる自分がいた。
現に、そう思わせる疑問が年々増えていっているように思うのだ。
人に言われるくらいなのだから血が繋がって無いんじゃないだろうかと小さ
い頃からの疑心をその度に深くさせるのだが、同時にそうであったらと願う
自分がした都合のいい解釈に他ならないとも思う。
そうして板ばさみになって気づくのだ。
どちらであろうと結局自分は、どう仕様も無く姉に囚われていると。
しかしそんなことはいくらなんでも有り得ない、あってはいけないと思い、
自分の気持ちに気づかぬうちにと、誤魔化すようにして携帯を取り出しメー
ル画面を開くのだった。
登録アドレスの中から手近なのを適当に選んでメールを送ると返事はオーケ
ーだったので、それでひとまず政宗の気持ちは落ち着いた。
姉を自分のに使って汚してはいけない。例えそれが一時の虚しい戯れなのだ
としても、こちらの選択が正しいに決まっている。
いくら好きとはいえ、好きの種類を吐き違えてはいけないのだ。弟と、姉。
政宗は自分にそう言い聞かせて目を閉じた。
 
 
 

しかし意識すればする程、公園で遊んだあの日のことを思い出すのだった。
置いて行かれたあの日を。
自分はあの日、姉にどうして欲しかったのだろうか。
その答えも政宗は分かっていたのだが、もう何もかも結果の後には今更なこ
とだった。しかし好きなのは本当なのだ、姉が、のことが。
許されるならば今だってずっと隣にいたい程だ。
 

思考が、どんどん深みに嵌まっていく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「なあ」
 
 
 
自分が何を言っても姉を苦しめるだけなのは分かっていた。
それでも思うのだ。
あの日のようにもう一度自分の名前を呼んでくれないかと。
自分の頭のよさが姉のプライドを粉々に砕いたのだとしても、それでももう
一度、自分の側にいて自分を見ていて欲しかった。
机の引き出しの奥に閉まったまま渡せなかった誕生日プレゼントを見るたび
に自分らしからぬ憂鬱な気分に襲われるのだ。
は勿論、そんなことを知りはしないだろう。
 
 
 
「俺が勉強、教えてやってもいいぜ」
 
「・・・何言ってんの」
 
 
 
その言葉にすら胸が掻き立てられるのは何なのか。
此処まで来て好きの種類が違うことを分からないわけが無かった。だけどそ
れは一番不味いことだと分かっていたし、終わらせるしかないことも理解し
ていた。
もういい加減にしたいと、身勝手にも自分から始めた派手な女遊びに疲れを
感じていた。終わない悪循環を終わらせるには決定的な一言があれば十分だ
った。これ以上誤魔化し続けることは出来なかった。向き合うしかない。
片目を閉じて廊下の木目に目をやっていると、の嘲笑が聞こえた。
 
 
 
「少しは政宗だって挫折してみなよ。そんな事、簡単に言えなくなるから」
 
 
 
もういい、とはレースのついた袖で瞼をこすり口を閉じた。
そうして自分の部屋へと戻るべく政宗に背を向けたが、しかしその手を咄嗟
に掴んだ政宗は、あと寸でのところで行くなと口にしそうになるのを押し留
めて言葉を呑んだ。
自分はそうでも、はそんな事を言われても困るだけだ。
降りた沈黙の後、掴んだ手に気まずくなった政宗は気恥ずかしく悪い、と蚊
の鳴くような声で言って手を放した。
それを見たはその場に立ち尽くしたままの政宗に振り返って言う。
 
 
 

「あっち行け、バカ」
 
 
 

覚えていたんじゃないか。
嫌味で言われたはずのそれに、政宗はその瞬間、言い知れぬ程に心が高揚す
るのを感じてたまらず小さく笑った。
あの日と同じ罵声を浴びせたその姉は、政宗がひっそりと笑んだことに気味
の悪さを覚えて、ずぐさま振り返ることなく部屋へと戻っていった。
あの頃よりもずっと弱々しい声で呟かれたそれは、涙に掠れてようやく聞き
取れるほどのもの。
しかし政宗にとってその言葉の威力は自分の気持ちを大きくさせるものとな
った。胸を抉るのは、今しがたが流した涙。
あれはきっとまだ自分の事が完全に嫌いになってはいない証拠で、そして政
宗にはその涙が証明に見えた。
一体いつから、は自分の中で女だったのか。
いまいち分からないが、最初から好きなことに違いなかったのだから、今更
さして問題ではない。幼馴染や従兄弟でも恋愛ができるのだから、そういう
ものなのだろう。
メールを寄越して来た女なんか、もうどうだって良い。
政宗は次の瞬間、おもむろに携帯を取りに部屋に戻り、アドレス帳を開いて
そこにあった女の名前を全て、綺麗さっぱり削除した。
例え今、百人の女が自分を好きだといっても政宗にはそれが魅力的なことの
ようには思えなかった。
例え叶わないことだとしても、自分にはあの女がいいのだ。
そのためには永遠にあきらめないであの女を追うであろう覚悟もあったし、
それでいいのだと、政宗はシニカルに笑った。
 
 
 
 
 
思う。
 
あとはチャンスの問題だと。
 
 
 
 
 
 

悪魔が言うんだ。
 
あれをお前のものにしてやってもいいと。