妙に記憶に残っていること。
わたしには叔父が一人いる。もう何年も前に、それこそまだわたしが就学して間もない、初めての夏休みを迎
えた頃の事、共働きで忙しい両親に諭され、その叔父のもとで一月お世話になったことがあった。電車を乗り
継ぎ次第に平らで緑の多くなっていく風景に言い知れぬ不安を覚えながら、都会育ちのわたしは鞄一つを持っ
て叔父のもとへ向った。錆びたトタン屋根の小さな駅に着くと、ホームに立つ駅員の姿も、また乗車を待つ人
の影も見当たらず、異国の地かこの世の果てにでも来てしまったかのような錯覚に陥ったのを覚えている。
抱える鞄の重さを忘れてしまうほどの不安をそこで覚えたが、渋々向った改札口の前でようやく一人の男の姿
を目にすると、それが初対面であるにも拘らず、わたしは安堵から泣きだしてしまった。駅の隅に置かれた喫
煙スペースの椅子に腰掛けていたその男は、紛れも無い私の叔父であった。一見して初老かと思わせる落ち着
きを纏っていたが、改札口を出て近付いてきた子供が泣いているのを目にすると、その瞳はすこしばかりでは
あるが、驚きに見開かれた。やがてわたしが手の甲ですっかり涙を拭い嗚咽が止まったのを見計らって、男は
一言、言葉を発した。
「怖いか」
男は自分の容貌をそのように尋ねた。確かに、見知らぬ地で初めて会った男が全身くまなく包帯を巻いている
ようでは涙が浮かぶかもしれない。子供であれば余計に。けれども例えそうであったとしても、わたしは血の
繋がった人間をを目にして恐怖に涙する程冷酷ではないつもりだ。父より、叔父の容貌については事前に訳を
聞いている。首を振って否定をすると、叔父はそうかと言ってこちらへと距離を詰めてきた。
「長旅、ご苦労であったな」
その言葉とともに降りてきて掌は父によく似てごつごつとしていて、ところどころが硬かった。それでいて熱
いくらいの熱を持っていた。父によく似て、しかし父の手ではないその手がわたしの頭上を行き来するのをな
んだか不思議に思いはしたが、不快ではないのでされるがままにしていた。他所の人にされるのは嫌だが、こ
れが血の繋がりの作用なのだろうか。初対面であるのに、どこか親しみを感じる。大きな掌のぬくもりの心地
よさに目を細めると、叔父は猫のようだと言って目を細めて可笑しそうにした。
「息災か」
「はい」
叔父の手が頭の上を退くと、代わりに温かな風が髪を撫でる。軽くなった頭に違和を感じつつも首を縦に動か
して返事をすると、叔父はならば良いと言ってゆっくり、体を駅の出口へと向けた。その背を追うようにして
おじの隣に寄れば、私の鼻を微かについた墨の香り。身に纏うには聊か時代錯誤なその香り。不思議な人。そ
れがわたしと叔父の出会いだった。
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「やれ、。入るなら入れ」
おじさんの、少ししゃがれた様な低い声が耳を掠る。障子の隙間から覗くわたしの存在はお見通しだったと言
わんばかりに、その背は机に向けられたまま、声だけで咎められる。肩に掛けられただけの茶交じりの紅の羽
織が落ちかけているのを目にして、いそいそと膝を擦って部屋に入り後ろ手に障子を閉めた。まだ昼にも拘ら
ず、そうすると室内は影を濃くするのだった。真っ白な壁に沿って置かれた横長の机に向かい右腕を動かすお
じは、私の相手をしている場合ではないと暗に伝えていた。その冷たく張りつめたような雰囲気に気押されて
話しかけるわけにもいかず、かといって話すこともこれといってないので、仕方なくわたしは足元の畳の網目
が一体一畳にいくつあるのかといった下らないことを考え始める。しかしそれもすぐに飽きたのでやめてしま
う。次に天井の染みを数えることにしたが、これも次第に染みが人の顔に見えてきてしまい、まるでこちらを
呪わんとして見つめてくる霊に思えて恐ろしくなったので顔を逸らしてしまった。その際にこれまで数えてい
た染みの数がいくつあったのかも忘れてしまい、続けることが困難になったのでこの遊びもここまでとなっ
た。それならば次は何を数えようか。閉ざされた部屋にて思いつく遊びはどれも陰鬱な物ばかりで、慣れぬ畳
の上で正座をしていた足はいつの間にやら感覚をなくしていた。
「どうした?」
いったいどれ程の時が流れていたのだろう。カタンと音がして、おじさんの声が部屋に響いた。畳に落として
いた顔を上げれば、筆を置いたおじさんがこちらに身体を向けて、じっとわたしを見つめていた。仕事とやら
はもう終わったのだろうか。遊び相手が欲しくておじさんの部屋に来たとはいえ、肝心の中身を考えていなか
ったことを悟られるのが恥ずかしくて、適当な言葉を口にした。
「それ、たのしい?」
「さあな」
「・・・なにかいてるの?」
「色々なことよ」
興味がないと言いたげにぞんざいな返事が寄越される。目線こそ私に向けられているものの、その言葉がまる
で一々馬鹿な事を聞くなと言っているように思えて、私は内心少しばかり傷つく。同年代の他の子に比べれば
わたしは本を読むほうである。だが所詮は小学生が読む程度の内容の本であって、小難しい論文や経済につい
ての知識など欠片も持ち合わせていない。叔父の書いているものがその理解できない小難しい内容のものであ
あり、わたしに話したところで仕方が無いものとは言え、歩み寄ろうとする心をぎりぎりのところで砕く叔父
の、そしてそれを楽しむその厭らしさに気づかぬほど、わたしは鈍くは無い。わたしのふてくされを、単に構
ってもらえず腹を立てているのだと思い込んだのか、きちんと分かっていたのかは分からないが、ともかく次
に叔父が口にした言葉は少しばかり、そんな私の様子を楽しんでいる節があった。
「主は此処にきて、さぞつまらぬ思いをしていると見える」
「・・・だっておじさん、遊んでくれないんだもの」
「ほお」
「なつやすみなのに」
「課題はどうした?主は学生であろう」
「あるけど、まだいい」
わたしがそう言うと、叔父さんは突然肩を震わせヒヒと不気味に笑い始めた。それでなくてもわたしの言う事
をいちいち馬鹿にして笑っているようなところがあるので不機嫌だったのが、此処に来て更に急降下の一途を
辿って行く。
「主はあれよ。目先の楽を取り、後でじわじわ苦しむ性質であろう」
「しらない、そんなの」
「そうか。愚かしくて、見ている分には退屈せぬな」
「どういういみ?」
「なに、こちらの話だ。分からずとも良い」
おじさんはそうしてまたも、顔に巻かれた包帯の下でくぐもった笑い声を響かせた。何に笑われているのか分
からないわたしは、ただ困惑するしかなかった。それでもおじさんは、来ている着物の袂に手を入れると巾着
を取り出し、小銭を少々と昔の偉人が書かれた札を一枚、わたしに寄越してくれた。小銭はわたしの右の手に
しっかりと握り締められ、近所の駄菓子屋へと向かわれる。お札の方は全て、その帰り道にあるスーパーで今
晩のおかずを買うのに使われる。おじさんはお金を受け取ってわたしの機嫌が幾分浮上したのを確かめると、
すぐにその身体をまたもとの壁へと向けてしまったが、ここで一つわたしが言いたいのは、決して小遣いをせ
びりにおじさんの部屋まで来たのではないということである。そう伝えるが、おじさんは日が暮れる前に戻る
ようになと背中を向けて返すのみでまともに取り合ってはくれない。仕方なく、近所の駄菓子屋へと向った。
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叔父が一人で住んでいるというこの家には、書斎と応接間を兼ねたいかにも物書きの持つ部屋というのが存在
していた。例えばおじさんが入用で外に出てしまった時や、家に居ても仕事が忙しくわたしに構っていられな
い時に限り、わたしはこの部屋に入ることを許されていた。とはいえ、其処は遊ぶには狭すぎる6帖程の部屋
で、壁は本棚によって一面埋もれてしまい、窓ですら見つける事が出来ない閉塞空間である。することといえ
ばそこに無数に並んだ本を読むことだけである。本特有のかび臭さと牛皮の匂いとが混じって、独特の雰囲気
に満ちている部屋に足を踏み入れれば、その異様な臭いはありとあらゆる知識がこの部屋に眠っているのだと
いう宝部屋のような錯覚を起させる。私の旺盛な知識欲は、それに歓喜するのだった。本が好きな者同士、そ
の気持ちが分からないでもないのだろう。おじはそんなわたしに「ほどほどにな」と言うだけで、強く退室を
促すようなことはしなかった。こういう訳で、時間を持て余した日にはもっぱら叔父の書斎に篭って、わたし
は宿題もそっちのけで手当たり次第に読書に専念していた。そこでこっそり見つけた、わたしだけのお気に入
りの本がいくつかある。いずれも叔父の趣味が伺えるもので、それだけに一番人の目につきにくい本棚の上段
端の端に追いやられていたものだ。内一冊は単なる百科事典であるが、もう一冊はその奥に押し込められてい
た『奇形』と題された写真集である。この写真集に、幼いわたしは魅せられた。題名以外には何もない簡素な
表紙を捲れば、まずは単眼症と題された生まれたての皺くちゃな赤ん坊と目が合う。次には多肢症、ずっとい
ってその理由と原因、医術の進歩で締めくくられるまで、小心者であれば目を覆いたくなるような写真の数々
が、そこには幾つも載っていた。はじめ、それを手にして好奇心で中身を見た時は気分が悪くなった。しかし
怖いながらにももっとよく見たいという危うい好奇心に負けてページを捲っているうちに、感覚が麻痺してし
まったのか、気がつけば食い入るようにそれを見つめている自分がいた。シャム双生児の写真の、結合した腹
の辺を指でなぞる様に触れる。当然、皮膚の感触などなく、紙の冷たさがそこにはあるだけだが、何故同じ人
間としてこのような違いが生じるのか、羨ましいと思った。何の変哲もないつまらない身体で生まれるよりも
彼らのようにその身体に運命を背負って生まれてきてみたかった。その美しさにほう、と息をついたと同時。
背後より声がした。
「知識欲が旺盛なのは良いが、・・・主はちいとばかし、好奇心が過ぎるようだな」
驚いて固まったわたしを置いて、おじさんは背後より手をのばすとわたしの手に合った本を抜き取った。それ
から続けて部屋を出るように言われる。その声は別段、普段の会話と変わりない抑揚で発せられていたが、こ
の状況にあって、わたしはむしろいつも通りであるほうが恐いと感じた。怒られる。身を縮ませ急いで部屋を
出ると、叔父はわたしが散らかした書斎の後片付けを始めた。あの本を取り出すためには、その前にいくつも
詰まれた本が崩れてこないように、先に取り出しておく必要があった。それら全てを元の段にしまい入れ部屋
を出てきた叔父は、私の前に立つと二度と入るなとだけ言って部屋に鍵をかけた。自分のせいであるとはいえ
秘密基地を取り壊されてしまったみたいで、悲しかった。
「ごめんなさい」
おじさんが何も言わずにまた仕事部屋に戻ろうとするので、その背中を追って声を掛ける。いっそ父や母のよ
うに叱り飛ばしてくれたら良いのだが、おじさんが声を荒げたところは見たことがない。その身につけた仮面
の下で一体何を考えているのか、わたしには全く分からない。私の声は涙交じりで震えていたが、振り返った
おじさんは低い声でわたしに問うだけだった。
「何故ぬしが謝る?」
「わるいことを、したから」
「はて。悪いこととは、一体なんだったか?」
二歩先にたつ叔父がどこかとぼけた調子で聞き返す。それはわたしが勝手に叔父さんの本を読んだから。そう
答えようとして、そこでようやく引っ掛かりを覚えた。言われて見れば、確かに。そもそもあの部屋に入るこ
とを許したのも、本を読んでいいと許可を下したのも全ては叔父である。読んでいけない本があるとは一言も
言われておらず、まして見てはいけない本があったのならば、それは叔父が事前に然るべき処置をしておくべ
きだっただけのこと。わたしに一切の非は無いはずなのだが。・・・・・何故、わたしは叔父を前にして見ら
れてしまったという罪悪感を覚えているのだろう。煩悶に眉を寄せて黙りこくるわたしを、叔父は見下すよう
に、しかし優しげに言った。
「さて、もはや過ぎたことよ」
やがて叔父はまた歩き出した。その背を追ってわたしも再び歩きだす。横に並ぶと叔父の手が丁度掴み易い位
置にあったので握る事にする。一寸、おじさんの手は小さく揺れて反応をしたが、何か言われることはなかっ
た。包帯を巻いているので直ではないけれども、それでも人に触られるのが嫌なのだという。だけど、わたし
だけはその特別であったらと、繋がれた手を見て思う。廊下に落ちる陽だまりを数えて三つ、四つ。おじさん
はゆっくりと歩いていくれていた。
「ねえ、おじさん」
「如何した?」
「きょう、いっしょにねよう」
「何故?」
「こわいから」
「何が怖いのだ?」
「え?・・・えーっと、うーん」
「本にある化け物が夢枕に立つことか?それとも、我か?」
「りょ、りょうほう?」
「ヒヒ」
おじさんはまたいつもの様にあの不気味な笑い方をする。たしかに何が怖いのかと聞かれれば、あの本のせい
だとしか答えられないのだが、あれのせいで身に災厄が降りかかるというわけでもないので、確かに恐れを抱
くという行為は全くの無駄であるといえた。では一体、わたしは何を恐れているというのだろう。なんとなく
怖いと思ったこの心は、どこから来ているのだろう。これ以上は考えても仕方が無い。隣にいる博識の叔父に
答えを仰ぐと、目を細めてこちらを見た。にやり、包帯の下で笑んだのが分かる。
「主が真に怖いのは、異を受け入れられぬ己の心、」
「それは弱さよ」
叔父は、人の本質を見抜くことに長けていた様に思う。尻込みしてしまったわたしの手を少しばかり強く引い
て、なんてな、と言って意地悪く誤魔化すところ。小さなわたしはまだ、そのあざとさに気付けなかった。
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